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2021年2月1日発行 No.632

痛みを共有し、嘆きの声を挙げる教会

                            金田 佐久子

 祈祷会では出エジプト記の楽しい学びが続いています。先日は荒れ野を旅する民のため、パンを求める民の祈りに応えて、神が天からパン(マナ)を降らせてくださった出来事を学びました。「神の民はパンだけで生きるわけではないが、しかしパンがなければ生きてゆけない」という解説の文章を読みました。内心、この言葉に立ち止まりました。それは、今、コロナのため「パンがなければ生きていけない」いのち、つまり、肉体を生かしていくいのちと、「パンだけで生きるのではない」いのち、つまり、関係性におけるいのちが、分断されてしまっている現実があることを思ったからです。
 キリスト教ラジオ放送局日本FEBCの特別番組「『時のしるし』を求めて」の1月8日の放送の西岡義行牧師がお話の冒頭でこのことを述べられ、大いに共感しました。書き起こしたので紹介します。
“・・・教会にいのちのぎりぎりの人たちがいる。その人たちにとっては最期に家族と会うのはとても大事なこと。施設や病院は肉体のいのちを守るため、そうではない関係性における命をカットしていく。もうあと何日間しか生きられない人がいても、家族以外は入ることができない。家族でも限定的。身寄りがなく家族以上に教会の関わりがあった人も、家族でないから牧師は会えない。認知症があったけれど顔を見て直接話すと分かるのに、最後の2ヶ月間、理由が分からず孤独で、息を引き取った。牧師がその人を支える最後の祈りが剥奪されているという現実がある。病院が悪いのだということではない。多くの人はその痛みを知らない。その痛みは最も弱い立場にある人が感じてしまう。
 コロナは壁を超えてやってくる、国と国の壁も超えて。壁を乗り越えて迫ってくる脅威に、私たちはマスクや距離をとって、壁を作って防いでいる。壁をどう乗り越えていくか、それが問われている。
 痛みを共有することがとても重要だと思う。壁ができるとは、壁によって痛みが共有できないこと。一方が苦しみ、一方は気付かない。壁の本質はそこにあると思う。どんなに壁があっても、痛みを共有することができたら、壁を取り除く力がある。痛みを共有するとは、祈りしかない。叫びしかない。訴えしかない。痛みを共に痛む。痛んでいることを知らせてくれる人がいないと、どうにもならないので、その声を聞かないと。あの人がこんなにつらい思いをしている。それを聞いたときに、愛を持って痛みを共有して、痛みとして感じて行動に移ることができるのが教会ではないか。・・・”
 別の学びの会では、加藤常昭先生の「慰めのコイノーニア 牧師と信徒が共に学ぶ牧会学」を少しずつ読んで、1月はちょうど第10章「嘆きの声を挙げる教会」でした。そこには、子供たちと嘆きの詩編を共に読む教師バルダーマンが紹介されています。嘆きの詩編とは、不安を告げる言葉です。「叫び続けて疲れ、喉は涸れ、わたしの神を待ち望むあまり、目は衰えてしまいました」(詩編69・4)。不安や悲しみに囚われているとき、私たちはしばしば言葉を失います。自分の言葉の無力さを知ります。この教師は、子どもたちと共に、嘆きの詩編が子どもたちの魂の言葉となるまで読みます。子どもたちは呪縛から解かれ、一挙に不安について語り始めるというのです。聖書は人を自由に嘆けるように解き放つのです。そのとき、詩編はいのちの言葉となり、人は嘆きつつ、すでにいのちに生きるのです。

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