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2021年3月1日発行 No.633

十字架の主を仰いで

                            金田 佐久子

 カトリック教会の「心のともしび運動」からラジオ番組「心の糧」の文章を、毎朝メールで受け取っています。いろいろ教えられています。その中でライターの堀妙子さんが書かれたものを、先日、礼拝説教で少し紹介しました(「母のぬくもり」2019年8月8日。「心のともしび」のホームページで読めます)。改めて書かせていただきます。
“・・・母は私の生き方をいつも励ましてくれたし、文を書く仕事をしているとき、いちばん喜んでくれていた。・・・晩年の母の祈りには、私が人の評判を気にしたり、完成した本でも、その行く末を心配したりするのをやめるようにという思いが込められていた。
 神さまから吹いてくる風に乗って、神さまが望まれるままに生きなさいとよく言われた。嫌なことが起こると、それはよい知らせだとさえ言った。そこから離れなさい、神さまに任せて待ちなさいと言った。改めて母の写した讃美歌の歌詞〔54年版讃美歌510番「幻の影を追いて」〕を読んで、私は神さまを信じていると思っているけれども、それはもしかすると自分の中にある偶像の神さまかもしれなかった。
 母が私のために祈り続けてくれたのは、私が創った神さまではなく、真の神さまに帰れということなのだろう。・・・”
 堀さんのお母様が娘に「嫌なことが起こるとそれはよい知らせ、そこから離れて神様に任せて待ちなさい」と語ることができた信仰に感銘を受けました。堀さんがお母様の祈りと助言から、自分の中にある偶像の神さまを信じているかもしれない、と自己吟味しておられることにも感銘を受けました。
 教会はレント(受難節)の日々を過ごしています。私たちは、毎年、主イエスが私たちのためになさった救いの業を思い起こして、記念しています。信仰の基本である十字架の出来事への信仰を新しくしたいと願っています。
 主イエスが十字架につけられたとき「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。『おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。』同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。』一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった」(マルコ15・29〜32)。
 「十字架から降りてみろ」というののしりの言葉に「自分の中にある偶像の神さま」がいると思います。主イエスを軽蔑した人々にとって、神の力とは人間にはできそうにないことをやって見せることにあるのです。自分に都合のいい、自分の考えにかなう神の力を見せろ、と言っているのです。私たちはどうなのでしょうか。どこに神の力の働きを見るのでしょうか。十字架から降りる主イエスですか。十字架から降りられない主イエスでしょうか。主の死がなければ私たち人間の救いは実現しませんでした。「彼が自らをなげうち、死んで罪人のひとりに数えられた」(イザヤ53・12)。

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