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2021年11月1日発行 No.641

それでも種を蒔く

                            金田 佐久子

朝、種を蒔け、夜にも手を休めるな。
実を結ぶのはあれかこれか
それとも両方なのか、分からないのだから。(コヘレト11・6)


 11月の第1日曜日には、先に神のみもとに召された方々を偲ぶ召天者合同記念礼拝を献げています。
 私たちは、死に向かいつつ、神に生かされている命を生きています。そのことに思いをはせながら、最近出版された「すべてには時がある 旧約聖書『コヘレトの言葉』をめぐる対話」(小友聡・若松英輔著)を読み始めました。大いに刺激を受けて、コヘレトの言葉を改めて味わっています。
 小友先生は日本基督教団中村町教会牧師・東京神学大学教授でいらっしゃいます。冒頭のコヘレトの言葉をこのように説き明かしてくださいました。
 “種を蒔いても、どの種が実を結ぶかは誰にもわかりません。ひょっとすると、どの種も実を結ばずすべてが無駄になってしまうかもしれない。そういうことだってあり得るわけです。そうであれば、種を蒔いたって意味がないではないか、と考えてしまいがちです。
しかし、コヘレトとはそうは考えていません。どの種が実を結ぶかわからない。だからこそ朝に種を蒔き、夕べにも手を休めるなというんです。ここにもコヘレトの逆転の発想が潜んでいます。
 この言葉は、宗教改革者として知られるマルティン・ルター(1483~1546)がいったと伝えられる言葉とつながります。それは次のような言葉です。

 たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植えよう。

 ・・・もし明日で世界が終わってしまうのであれば、リンゴの木を植えても意味がないように感じてしまいます。しかも、いま植えたとしても、すぐに実を結ぶはずはありません。実を結ぶのはずっと先です。・・・ここでは、リンゴの木を植えたって、植えた人自身はその実を食べられないことが示唆されているのです。
 つまり、ルターが見据えているのは、次の世代のことなんです。たとえ、私には明日がなくても、今日、未来の世代に向けて、リンゴの木を植えようとルターはいう。「明日、世の終わりが来る」とは悲観的な観測です。しかし、それによって導かれる生き方は、「リンゴの木を植えよう」という建設的な姿勢なんです。
 コヘレトも同じです。…”
 この言葉を読んで、私は、ヨハネによる福音書の主イエスのお言葉を思い起こしました。「あなたがたが自分では労苦しなかったものを刈り入れるために、わたしはあなたがたを遣わした。他の人々が労苦し、あなたがたはその労苦の実りにあずかっている」(ヨハネ4・38)。
 コヘレトの言葉、そしてルターの言葉を聞いて、私は、先人や、信仰の先輩が蒔いた種、植えた木の実りをたくさん受け取っていたことに気づきました。それは、直接に顔と顔と合わせた人々だけでなく、地上の生涯では出会わなかった無数の人々も含まれています。何よりも、聖書そのものが蒔かれた種であり、植えられた木であり、私たちは、日々その実りに与らせていただいています。将来のことは神のみぞ知ることで、私たちには知り得ませんが、次の世代のために、私たちも、今日、種を蒔く者として、あるいは木を植える者として神から遣わされているのです。

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