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2022年4月1日発行 No.646

ここに愛がある

                            金田 佐久子

 先月半ばに「西川口だより、ありがとうございます。最近のニュースから『北京オリンピック』が抜け、『ウクライナとコロナ』が日々のニュースのメインとなりました。早く『ウクライナ』が抜けますように」と、月報をいつも郵送している先輩牧師のN先生からの返信があり、うなずいて読みました。コロナ感染症対応の日々も3年目に入っています。2月24日のロシアのウクライナ侵攻に心を痛め、祈りの手を上げています。ウクライナの人々への人道的支援活動への献金も始まりました。3月11日は、東日本大震災から11年目の時を刻み、思いを馳せ祈りました。その翌週の16日の夜、東北地方に大地震が起こり、死傷者が出て、建物やインフラも被災しました。地震は自然現象とはいえ、地の上に人々は暮らしています。ただ主の助けを祈りました。大勢の人が同時に被る苦難と共に、一人ひとりが暮らしの中で被る苦しみもあります。人は苦難を避けることができない存在です。
 そのような中で、今年も、教会はレント(受難節)の日々を過ごしており、主イエス・キリストの救いの業を思い起こしています。
 先ほど書いたように、私たち人間は生きていく限り苦難は避けられず、死から逃れることはできません。しかし、避けられるならば苦難を避けたいと思いますし、死ななくてすむならばその方がいいと思っているのではないでしょうか。
 救い主イエス・キリストのご生涯は、苦難を受けること、死ぬことを目的としていました。私たちの中にそのような人がいるでしょうか。主イエスのゲツセマネの園の祈り「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14・36)から、イエスが「杯」つまり十字架の重荷から逃れたいと思っておられたことが分かります。けれどもそれは、父なる神が求めておられる十字架の重荷をはっきりと感じておられたためでした。私たち罪ある人間には、罪ゆえに、それがどれほどの重荷なのか本当には分からないのです。その罪人を赦し、救うために、主イエスが罪人の身代わりになって、十字架で死なれることが、絶対に必要でした。それがなければ人間が救われる道はないからです。主イエスは、父なる神の御意志を受け入れるべく、先ほどの祈りに続けて「しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14・36)と祈ってくださいました。それは、私たちに対する神の愛、私たちに対する主イエスの愛ゆえでした。
 「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(ヨハネの手紙一4・10)。
 私たちはこの良い知らせ・福音を聞く前から、既に神に愛されていました。救われるとは、この与えられている神の愛を受け取ることです。それによって、私たちも父なる神を愛し、キリストを愛し、隣人を愛することができるのです。

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