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2022年10月1日発行 No.652

「主の祈り」と共に

                            金田 佐久子

 
 私たちの教会にとって大切な3つの文章「日本基督教団信仰告白〔使徒信条を含む〕、十戒、主の祈り」を月1回、主日礼拝の説教で取り上げてきました。信仰を求めている人のために信仰入門となればと願ってのことです。また、既にキリスト者として生きている方々が、信仰の足腰をしっかりとされるようにと願ってのことです。
 今年の6月から「主の祈り」を学び始めました。礼拝では「主の祈り」の言葉は文語文を用いています。長く親しみ身に付いている人が多いと思います。
 主の祈りが記されている聖書の言葉を紹介します。マタイによる福音書第6章を、最新の聖書協会共同訳で読んでみましょう。主イエスが弟子たちに語られた山上の説教の一節です。

「あなたが祈るときは、奥の部屋に入って戸を閉め、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いてくださる。祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない。彼らは言葉数が多ければ、聞き入れられると思っている。彼らのまねをしてはならない。あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。
『天におられる私たちの父よ
御名が聖とされますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように
天におけるように地の上にも。
私たちに日ごとの糧を今日お与えください。
私たちの負い目をお赦しください私たちも自分に負い目のある人を
赦しましたように。
私たちを試みに遭わせず
悪からお救いください。』」
(マタイ6・6~13)

 年を取り、体が弱くなって施設で暮らすようになった教会員がおりました。語る言葉も少なくなっていたときでも「主の祈りを祈りましょう」と声をかけ祈り始めると、何も見なくても共に祈ることができたことが、何度もありました。素晴らしいことだと感動しました。
 けれども、よく覚えている反面、本当に主の祈りが自分たちの生活に根付いているのだろうか、私たちの生活を形作っているのか、改めてよく考えなくてはならないと思っています。まず私自身が、主の祈りを再発見し、その恵みを語ることができるようにと祈ります。
 ある牧師にこう言われたことがあります。「主の祈りは子供も祈れる。大人も祈れる。日本人も祈れる。どの国の人も祈れる。イスラム教徒でも祈れる。仏教徒でも祈れる。そういう祈りだよね」。思いがけない言葉に驚き、しかしうなずきました。
 最近刊行された「最も偉大な祈り 主の祈りを再発見する」を少しずつ読んでいます。冒頭にこうあります。
 〝「主の祈り」は、キリスト教の最も偉大な祈りです。また最も奇妙な祈りでもあります。主の祈りはすべてのキリスト教徒が祈りますが、キリストについて述べていません。すべての教会で祈りますが、教会について述べていません。…「主の祈り」と呼ばれていますが、「主」について述べていません。…〟
 主の祈りが奇妙な祈りであると考えたことがありますか? 主イエスが教えてくださった「主の祈り」は私たちをどこへ導いてくれるのでしょう。主の祈りと共に、祈りの旅を始めたいと思います。

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