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2023年12月1日発行 No.666
不可能の可能性
金田 佐久子
キリストは世に来られたときに、次のように言われたのです。「…『御覧ください。わたしは来ました。聖書の巻物にわたしについて書いてあるとおり、神よ、御心を行うために。』」(ヘブライ10・5、7)
12月3日から今年の待降節(アドベント)が始まりました。待降節は、救い主イエス・キリストのご降誕を祝う備えの期間です。考えてみれば、約4週間でどのように備えることができるのか、「準備万端整いました」と人が胸を張って神に申し上げられることなのでしょうか。
待降節はその年のご降誕ばかりでなく、歴史の終わりに必ずお出でになる再臨のキリストを、いっそう深く待ち望む期間でもあります。私たちキリスト者にとって、再臨のキリストにお会いする準備は人生の終わりまで続きます。それは、生きることそのものである、と言っても過言ではありません。日ごと新たに主の再臨に備えて生きること。「今日」という日、「今」というとき、キリストに立ち帰り、受け入れられている赦しの喜びをいただき、どんなことがあっても、感謝と賛美を献げる、生き生きとした信仰生活を送れるようにと祈ります。これから洗礼を受けようという方も、苦しいことがあっても、祈りと喜びと感謝を忘れないで生きる信仰者になっていただきたいし、そのためには牧師は伴走者のように寄り添って参ります。
ところで、どんなことがあっても、感謝と賛美を献げる信仰生活とは、悲しいことがなく、嘆くことがないというのではありません。「なぜこのようなことが起こるのか」という悩みを抱え、「神さま、どうしてですか」と訴える祈りをすることもあります。しかし祈っていくうちに、祈れること自体が救いであり、神がすべてをご存じであり、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6・34)が真実であることを体験いたします。
現在、水曜日の木曜日の祈祷会では左近淑(きよし)著「混沌への光 現代に語りかける旧約聖書」を読んでいます。約50年前の本ですが、左近先生の説き明かしに、人間の罪の深さをしっかりと見据える旧約聖書の奥の深さを知らされます。
先日の祈祷会のアモス書第5章の学びで「神を拝するとは自明のことでも当然のことでもない。不可能なわざである。十字架によってのみ成り立つ不可能の可能性であり、奇跡であり、恵みである」という言葉に出会いました。「不可能の可能性」。
まもなくクリスマス。キリストは被造物となり、幼子としてお生まれになりました。神の御心を果たすため、世に来てくださいました。ご降誕の出来事もまた「不可能の可能性」です。こうして神は救いの道を開いてくださいました。ハレルヤ。
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