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2024年1月1日発行 No.667
私たちは聖霊の器―霊の思いに身を任せて
金田 佐久子
主の年2024年を迎えました。この年も、先立って導いてくださる主の後に従って参りましょう。
先日、YouTube動画から「思いがけず利他」(中島岳志著)という本を知りました。特に第2章「やって来る―与格の構造」をたいへん興味深く読みました。現在、政治学者であり大学教授でもある中島氏は、大学時代はヒンディー語を学び、大学院ではインド政治を研究し、インドで現地調査をされました。少し引用します。
“…インドはイギリスに植民地支配されていたため、今でも英語がよく通じます。…しかし、私が調査の対象にしたのはスラムの住民や教育を十分に受けていない庶民層で、日常会話はすべてヒンディー語でした。…相手が英語を使いこなすことのできるエリート層だとわかっているときは、最初からヒンディー語では話しかけず、まずは英語で話し始めるのです。そして、ある程度コミュニケーションがとれてから、ヒンディー語に切り替えます。すると相手が急にリラックスし、私に関心を持ってくれるのです。
…ヒンディー語を話し出した私に対して、相手は驚いた表情を見せ、尋ねます。「ヒンディー語ができるのか?」
このとき、インド人の多くは与格構文を使いました。直訳すると「あなたにヒンディー語がやって来て、留まっているのか?」となります。
こんなところでなぜ与格構文を使うのだろうかと、はじめは不思議に思いました。…
しかし、よく考えると非常に重要な思想がここに含まれているのではないかと思えてきました。
―言葉が私にやって来て留まっている。
だとすると、言葉はどこからやって来たのでしょうか?
それはおそらく過去であり、その先にある彼方でしょう。…
私が言葉を所有しているのではない。言葉は私の能力ではない。私は言葉の器である。言葉は私に宿り、また次の世代に宿る。私がいなくなっても、言葉は器を変えて継承されていく。そんなふうに捉えられているのです。…”
中島氏の「私は言葉の器である」という表現に、なるほどと思いました。それが教会の信仰にも通じると感じたからです。
ヨハネ福音書第3章には主イエスと、ファリサイ派でユダヤ人議員ニコデモとの対話が記されています。ニコデモは夜にイエスを訪ね、あなたは神から来られた方ではないかと言いました。イエスは「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と言われました(3節)。ニコデモは驚き、どうして人がもう一度母から生まれることができるかと言いました(4節)。イエスは言われました。「だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることはできない。…風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3・5、8)。
「イエスは主である」と信仰告白ができるのは聖霊のお働きです(コリント一12・3参照)。救われた一人ひとりは、聖霊の思いの中に新しく生まれ、聖霊の器とされていると知りました。何とうれしいことでしょうか。自分の思いではなく、聖霊の思いに身を任せて、主イエスに従うことができますように、新しく生まれる魂が与えられますように、主に祈ります。
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