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2024年3月1日発行 No.669

だれも知らない主イエスの祈り

                            金田 佐久子

「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」。(マルコ14・36)

 教会はイースターに先立つ40日間を受難節として定め、十字架へ向かわれた主イエス・キリストの歩みを思い、祈り備える期間としています。主イエスが神の国の福音を宣べ伝えるに先立って、聖霊に促されて荒れ野で過ごされたのが40日間であり、そのことに由来しています。
 荒れ野で主イエスは悪魔(サタン)から誘惑を受けられました。マタイ福音書とルカ福音書では悪魔がどのように主イエスを誘惑したか描かれています。悪魔は「石をパンに変えてみたらどうだ。神殿の屋根の上から飛び降りて見せたらどうだ。世界中の繁栄と力を自分のものにしたらどうだ」という三つの提案をしました。「そうすれば、お前は救い主として人々から受け入れられるぞ」というわけです。主イエスは悪魔の提案をすべて拒否され「退け、サタン」と言われました。主イエスは、人々にパンを与えたり、不思議な出来事を起こしたり、富と権力で、人々の歓心を買う救い主ではありません。神からのまことの救い主として、私たちを罪から救い出すキリスト(メシア)として、十字架へ歩まれることを明らかにされました。
 主イエスはガリラヤの宣教を終えてエルサレムに入られました。十字架に架けられる前の晩に、主イエスは弟子たちと過越祭の食事をされた後で、ゲツセマネというところに弟子たちと共に行かれ、そこで父なる神に祈られました。
 竹森満佐一牧師がゲツセマネの祈りの説教でこう語っておられます。
“…荒野の誘惑の時に、悪魔の誘惑を退けて、ただ神にのみ従い、ただ、神によってのみ生きる生活に踏み込まれた主イエスはそれからこの時まで、この神に対して責任をとる生活を人びとに訴えつづけ、ご自分も、その生活を戦いつづけて、今、その生活についての決算書を、悪魔から、つきつけられている…
 ここには悪魔は出ていません。しかし、主イエスに罪の怖ろしさを教え、そしてその罪の怖ろしさにおびえさせたのは、悪魔であった、と言っていいでありましょう。荒野の誘惑では、主イエスは悪魔に勝たれたのです。ここでは今や、人の子が罪人らの手に渡される…悪魔の手に渡されようとしているのです。…荒野の誘惑での勝利は、悪魔をやっつけた勝利、追い払った勝利です。しかし、ここの勝利は、悪魔に負けて罪を犯した人間、その罪を犯した人間に代って死ぬために、悪魔の手先になってしまっているこの罪人に、ご自分を渡してしまおうとしておられる、主イエスのみ姿であります…”
 主イエスはご自分が罪人の死を死なれることが、父なる神のご意志であることを知り、その御心の実現のため、祈り抜かれました。だれも知ることができず、だれも担えない苦しみの祈りの中で、主イエスは神を「アッバ、父よ」と親しく呼び、その身を神の御業に委ねられました。それにより、私たちの罪が赦され、私たちが神のものとされる救いの道が拓かれました。


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