2025年10月1日発行 No.688
将来と希望を与える平和の計画
金田 佐久子
家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。(エレミヤ29・5)
私は先月下旬、第13回日光オリーブの里アシュラムに参加しました。主題聖句は冒頭の言葉です。これだけ読むなら何ということもない言葉ですが、当時、聞いた人々の中には預言者エレミヤに対する憤りや不満が起こりました。なぜでしょう。それはこの言葉が、バビロニアへ捕囚として連れ去られた南ユダ王国の王や高官に向けて述べられた言葉だったからです。エレミヤは捕囚の人々に手紙でこう書き送りました。
「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。わたしは、エルサレムからバビロンへ捕囚として送ったすべての者に告げる。家を建てて住み、園に果樹を植えてその実を食べなさい。妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたしが、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから。」(エレミヤ29・4~7)
さらに手紙には、捕囚は70年続き、その後で民は帰ることができる、と書かれていました。つまり捕囚となった人々は帰還できず、次の、あるいはその次の世代の人々が帰還するということです。捕囚の民は「私たちはいつ解放されるのか」「だれが私たちを助けてくれるのか」と思っていたでしょう。ですから彼らにとって、エレミヤの言葉は残酷に響いたかもしれません。
教会生活をある程度続けている方は、この後に続く言葉を聞いたことがあると思います。「わたしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである。」(エレミヤ29・11)
これを理解できなかった人々は、エレミヤに腹を立て彼を非難しましたが、神は御自分の民のために平和の計画を備えておられました。それは将来と希望を与えるものです。ですから神は、エレミヤを通して「家を建てて住み、果樹を植え、その町の平安を祈れ」と、民が数を減らすことなく、生き延びるため、極めて現実的な道を示されました。神の将来を望みつつ「今・ここ」をしっかりと生きるように、神が道を示してくださっています。
オリーブの里アシュラムの小グループの分かち合いで「『町の平安を祈れ』の『町』とは、家庭でもあり、自分の教会でもある」と言われた方があり、また別の方が「家を建て住み、果樹を植えてくれる人は希望。そのような人がいてくれたから今の自分がある」と言われて、本当にそうだと思いました。捕囚の民が希望の礎となるとは、神の逆説です。
10月31日は宗教改革記念日です。1517年、修道士であったマルティン・ルターが、改めてキリスト者と教会の歩みを吟味し直そうとして問題提起をしました。そのルターが言ったと伝えられる言葉とつながります。それは次の言葉です。「たとえ明日、世の終わりが来ようとも、今日、私はリンゴの木を植えよう」。たとえ、私には明日がなくても、次の、あるいはその次の世代に向けて、私は今日リンゴの木を植えよう、とルターは言っています。エレミヤの言葉と響き合います。
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