2025年11月1日発行 No.689
安心して涙を流せる
金田 佐久子
11月の第1日曜は、日本基督教団の暦で「聖徒の日」。当教会では、毎年召天者記念礼拝をささげます。地上の生涯を終えて、神のみ許に召された教会員・関係者を記念します。ご遺族の方々も礼拝にいらしてくださる大切な礼拝です。私の母もこの礼拝で記念されている一人です。
私は今月59歳になります。母は59歳で亡くなりました。親の年齢に追いつき、不思議な感覚があります。母の死がきっかけとなり、神が私を牧師になるように導いてくださいました。キリスト者にとっては、生きるも死ぬも、神の御手の中の出来事ですが、私としては、59歳から先の人生はいよいよ神から与えられた人生として、用いていただきたいと願っている今日この頃です。
今年の夏、解剖学者の養老孟司さんの記事が心に残っています。
“…僕は5歳の誕生日の3日前に父親が結核で死んだんですね。臨終のとき、枕元に呼ばれて「お父さんにさよならを言いなさい」という声が聞こえた。でも、言えませんでした。
…中高生のころ、僕は「あいさつができない」と怒られていました。結局、それは理屈で言えば、父にさよならを言わないことが、当時幼かった自分にできた唯一の抵抗だったんですよね。…それであいさつができないという症状になっていた。
中年になって身内が亡くなり…自分があいさつできないのは、父親にさよならを言わなかったことと関係があるんじゃないか…そのときに「いま父親が死んだ」と思いました。それ以来、ふつうにあいさつできるようになりました。…
死に直面したとき、とくに家族の死に直面したときの子どもの反応は、非常に全身的、身体的なものです。この年になって情動や感情はとても大事だと思います。
自分の死を「一人称の死」、自分と関係ない第三者の死を「三人称の死」とするのに対し、家族など親しい人の死を「二人称の死」と僕は呼んでいます。この「二人称の死」は人に大きな影響を及ぼします。…”(朝日新聞2025年8月25日)
「二人称の死」ついては、以前、ノンフィクション作家の柳田邦夫氏の『犠牲(サクリファイス)―我が息子、脳死の11日』から、自分の死や肉親の死に向き合うとき、深い痛み、悲しみ、嘆きの感情を抜きにして論ずることはできないと、腑に落ちた読書体験があります。
聖書の神は「わたし」「あなた」として出会ってくださる方です(エレミヤ32・38、エゼキエル11・20等)。神は、神の御子キリストを世にお遣わしになり、キリストを信じる者を神の子とされ、「わたし」「あなた」の関わりに生かしてくださいます。「御父がどれほどわたしたちを愛してくださるか、考えなさい。それは、わたしたちが神の子と呼ばれるほどで、事実また、そのとおりです」(ヨハネの手紙一3・1)。神は、神の子とされた私たちの悲しみ、痛みを知り、受けとめてくださいます。私たちは神に信頼し、安心して、神の前で涙を流し、嘆くことができるのです。
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