4月19日(日) 礼拝順序

黙  祷
賛  美  325
主の祈り
交読詩編 詩編8篇
祈  祷
聖  書 マタイ28:16~20
使徒信条
説  教 「主は共におられる」
賛  美  564
献  金
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌)24
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨 「主は共におられる」(マタイによる福音書第28章16~20節)

 よみがえられた主イエスが弟子たちに「ガリラヤに行くように」と指示していました。その言葉に従って、11人の弟子たちはガリラヤに赴きました。そこで、よみがえられた主イエスが出会ってくださり、弟子たちはイエスに会いひれ伏しました(17節前半)。「しかし、疑う者もいた」(17節後半)。この言葉に心が留まります。復活の主イエスがお出会いくださっているにもかかわらず、なお信じられず、疑っている。そういう者もいたのです。この「疑う」という言葉は、もともと「二つに分かれる」という意味です。目の前の主イエスと、復活という出来事を理解できない人間の不信仰に揺れ動く弟子たち。それは私たちも同じです。主イエスを信じない人たちのことではありません。主イエスの弟子たちの中にそういう者がいたのです。
 イエスはそのような疑う者に近づいてくださるのです。私たちの疑いを乗り越える道は、私たちの内にはありません。主イエスが近づき、主イエスの言葉を聞くところに、疑いを乗り越える道が開かれます。主イエスは「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」と語られました。「天と地」というのは、宇宙全体です。この宇宙全体に主イエスの権能は及んでいる。主イエスが死に打ち勝ってよみがえられたという事実から示されることです。
 今、私たちは礼拝堂で礼拝ができないという困難の中にあります。この地が新型ウイルスの猛威にさらされているためです。このような事態も、主イエスの支配の及ばないことではないと信じる。主のご支配は、私たちが望むような仕方での支配ではありません。私たちは疑う者だからです。ですから、ただ、主イエスの御言葉に聴き、その御言葉に留まることです。
 その弟子たちに主イエスが命令を授けられました。「だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい」。疑いを乗り越える道は、主イエスが近づいて御言葉を語ってくださることにあり、さらに語られた御言葉に従って生きることにあります。弟子たちが出て行って、父と子と聖霊の名によって洗礼を授けて、神の言葉に聴き従うように教えること。そこに私たちの生きる道が開かれます。この主の命令を支える約束があります。「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」。この主の約束に包まれ、支えられての命令です。「いつも」とは、直訳すると「すべての日々」。今日という日、これから続くすべての日々、主はわたしたちと共にいてくださる。世の終わりまで、永遠に、この約束は続きます。弟子たちと共にいるために、主イエスはよみがえってくださいました。まさにこのときに、聞くべき恵みの言葉であります。
 主イエスが授けられた命令、「父と子と聖霊の名によって洗礼を授ける」とは、神に立ち帰ることです。自分が新しく生まれさせていただいたことを知ること。自分が神の子、聖なる者、きよめられていることを知ること。洗礼を授けられること、それがイエスの弟子としての歩みの始まりです。続いて、主イエスが弟子たちに命じられたことを守って生き、それを伝えることです。その使命が教会に与えられています。いついかなるときにも、教会はここに立ち続けていきます。今の状況にあってもこの使命は変わりません。常に神に立ち帰り、主の言葉を聞いて、従っていく。主は世の終わりまで、すべての日々共にいてくださいます。ですから、この神の恵みの言葉に、私たちは留まり続け、置かれたところで精一杯この使命を果たしていきます。