4月26日(日) 礼拝順序
黙 祷
賛 美 18
主の祈り
交読詩編 詩編23篇
祈 祷
聖 書 ヘブライ 1:1~4
使徒信条
説 教 「御子によって語る」
賛 美 459
献 金
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌)25
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨 「御子によって語る」(ヘブライ人への手紙第1章1~4節)
このヘブライ人への手紙がはっきりと主張していることは、キリストが永遠の大祭司でいらっしゃるという真理です。キリストが大祭司であるとは、絶えず私たちのために主イエス・キリストが仲介者として執り成していてくださるということ。神の家である教会はこの恵みにいつも支えられています。
「神は、かつて預言者たちによって、多くのかたちで、また多くのしかたで先祖に語られ」(1節)、「この終わりの時代には、御子によってわたしたちに語られました」(2節前半)。私たちの神は、語られるお方です。かつては預言者たちによって神は語られました。この1節は旧約の時代、旧約聖書を指しています。2節前半は、新約の時代、新約聖書、と言ってよい。「神が語られる」ことは一貫しています。神が語られる言葉は出来事となり、出会いとなります。キリストがおいでになるまでは、人間の中から立てられ、神の言葉を預かり、神の意志を告げ知らせる預言者たちによって、神はイスラエルの先祖たちに語られました。しかし、キリストの到来によって「終わりの時代」が来て、新しい、完全な、そして唯一のしかたで、神は、御子によって、御子を通して、私たちに語られ、今も語っていてくださいます。本日の聖書箇所で、「イエス」とか「キリスト」とか「神の子」と言わず、「御子」と呼んでいることも大切です。御子とは、まことの人であり、まことの神であられることを指しています。
新型コロナウイルス感染拡大という危機的な状況、あるいは東日本大震災のような悲惨な災害が起こったとき、「神はいるのか」という問いが出てきます。「こんな悲惨なことが起こっているのに、神はどこにいるのか」。そのように人々が言います。聖書は何と語っているでしょうか。「神を知らぬ者は心に言う『神などない』と」(詩編14:1)。昔も今も「神はいない」と。「そういうとき、あなたの言う『神』とは何ですか」と問い返すことができるかもしれません。問いを立てる人に何らかの「神」イメージがあるのです。あるいは社会の中に、何らかの、人間が作りだした「神」イメージがあるのです。それは、旧約の民も主イエスの弟子たちも同じでした。自分たちの思いを投影した「神」のイメージを持っています。聖書の神は「それは違う」と言われ、「わたしである」と出会ってくださる方なのです。聖書の神は一貫して語り、御子をこの世に遣わして、十字架と復活の出来事を成し遂げて、救いをこの世界に打ち立ててくださいました。私たち人間はいろいろな「神」イメージを持っていますけれども、神は御子を通して語られ、私たちは招かれています。「ここにあなたの救いがある」と。
「神は、この御子を万物の相続者と定め、また、御子によって世界を創造されました」(2節後半)。「世界」という言葉は、「世々」とも訳すことができます。歴史も、私たちも、この状況も、御子の支配の中にあります。「御子は、神の栄光の反映であり、神の本質の完全な現れ」(3節前半)です。御子を見つめるとき神を知ることができます。「反映」は「輝き」とも訳せます。マルコ福音書第9章2節以下の出来事を思い起こされます。主イエスが山の上で天の栄光に光り輝き、神は「これはわたしの愛する子。これに聞け」(マルコ9:7)と語られました。御子は「万物を御自分の力ある言葉によって支えておられます」(3節)。御子は「人々の罪を清められた」。御子の十字架によって私たちは清くされ、祝福されています。御子は「天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」。御子は、父なる神の右の座におられ、私たちのために絶えず執り成していてくださいます。