5月10日(日) 礼拝順序

黙  祷
賛  美   205
主の祈り
交読詩編 詩編98篇
祈  祷
聖  書  ヘブライ 2:1~4
使徒信条
説  教  「大きく確かな救い」
賛  美  402
献  金
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌)27
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨 「大きく確かな救い」(ヘブライ人への手紙第2章1~4節)

 ここにキリストの教会の歴史が示されています。2章3節後半「この救いは、主が最初に語られ、それを聞いた人々によってわたしたちに確かなものとして示され」には、このヘブライ人への手紙が書かれた時期が示されています。この「主」は、主イエス・キリストを指しています。救いは、まず主イエスご自身が最初に語られました。「神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と主イエスがガリラヤで宣言されました。その救いは、十字架と復活によって示されました。
 そして、主イエスの地上の歩みを共にして、その教えを聞き、主の十字架と復活の出来事を目撃した証人たちが「それを聞いた人々」(3節)、つまり、主イエスから聞いた人々です。この人々は「第1世代」です。「第1世代」から聞いた「第2世代」がヘブライ人への手紙の著者です。その教会には「第3世代」の人々もいたと思います。そのようにして主の出来事を聞いた人が信じ、信じた人がまた語り、それを聞いた人が信じ・・・という教会の営みは、今に至るまで続けられてきました。
 それだけでなく、4節には、「神もまた、しるし、不思議な業、さまざまな奇跡、聖霊の賜物を御心に従って分け与えて、証ししておられ」とあります。ですから、さらに聖霊の神の証しによって、救いが確かであると示されるのです。
 聖霊の賜物については、コリントの信徒への手紙一12章3節後半以下にも語られています。賜物の源は唯一の聖霊の神であられ、聖霊の賜物は多様に与えられています。最大の賜物は愛です(コリント一13章)。主イエスに愛されて、赦されている「私」であり、「あなた」です。愛し合い、赦し合うのです。
 自分を振り返ってみても、福音を語り、福音を生きた人たちと出会って、信仰に導かれたことを思います。今日は母の日。私にとって福音の導き手の一人は母です。西川口教会の教会学校に送り出してくれました。教会学校の礼拝で福音が語られ、私は福音を聞き、やがて洗礼を受けることができました。
 西川口教会は今年70周年を迎えました。しかし、ヘブライ人への手紙の著者の教会は、まだ若い教会でした。第1世代の人々もだんだんと死んでいきました。埼玉地区で、開拓伝道をしているある牧師から「西川口教会はいいわね。歴史があって、役員もしっかりしていて」と言われ、「なぜですか」とお尋ねしたら、「開拓の教会はお手本になる人がいないのですよ」とのことでした。
 今の時代にも、ヘブライ人への手紙の教会にも苦闘がありますが、教会に生きる私たちはどのように生きていったらいいのか。1節にあるとおり、「聞いたことにいっそう注意を払って」生きることです。主イエスが最初に語り、それを聞いた人々が語ってくれた福音に、いっそう注意を払って生きる。それを怠るとどうなるか。「押し流されてしまう」。「注意を払う」という言葉は、航海用語で「(港に)停泊する」という意味です。「押し流される」とは「(船が)流れて漂流する」という意味があるそうです。舟のイメージです。聞くことには命がかかっているわけです。
 2節の「天使たちを通して語られた言葉」とは、旧約聖書の言葉、律法を指しています。違反と不従順の罰を受けるとは、自分が滅びることです。旧約でさえそうであったのに、御子がおいでになり、私たちの罪を清めて、今も執り成してくださっている、その大きな救いに対して、むとんちゃくであったならば、その損失ははかりしれない、非常に大きなものとなるのです。だから私たちは聞いたことに注意を払って生きるのです。舟が港にとどまって潮に押し流されることがないように、主が語られ、主の証人が語り、聖書が語る福音の言葉に留まることです。