5月17日(日) 礼拝順序

黙  祷
賛  美   58
主の祈り
交読詩編 詩編14篇
祈  祷
聖  書  ヘブライ 2:5~9
使徒信条
説  教  「栄光へ導くイエスの苦しみ」
賛  美  69(1、3節)
献  金
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌)27
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨 「栄光へ導くイエスの苦しみ」(ヘブライ人への手紙第2章5~9節)

 ヘブライ人への手紙第1章2節にある通り、今は「終わりの時代」、すなわち新約の時代であり、御子によって、神は私たちに語り続けていてくださいます。1章の後半で、御子は天使に勝り、神が王として立てられたのは御子である、と語られています。2章の冒頭には、神が語られる言葉をしっかりと聞くように、との勧告がありました。2章3節の「大きな救い」とは何でしょう。
 今日の聖書箇所を通して、その救いは「はっきりと証されています」(6節)。続けて、詩編第8篇5節から7節までの引用があります(ヘブライ人への手紙ではギリシア語訳旧約聖書を引用)。著者は、この詩編の言葉は御子を指している、と理解して引用しています。そうしますと7節の「あなたは彼を天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた」とは、神ご自身であり、天におられた御子が、私たちと同じ限りある人間存在となって来てくださいました。そこに主イエスの謙遜を見ます。低い者となることを引き受けてくださったのです。「わずかの間」とは「イエス」として地上の生涯を歩まれた30数年を指しています。そのお方に神は「すべてのものを、その足の下に従わせられました」(8節)。
 しかし、その引用の後に、教会の苦悩を感じる言葉が続きます。「『すべてのものを彼に従わせられた』と言われている以上、この方に従わないものは何も残っていないはずです。しかし、わたしたちはいまだに、すべてのものがこの方に従っている様子を見ていません」(8節)。ヘブライ人への手紙の著者の教会に危機があったと思われます。押し流されてしまう人たちが出てしまったと考えられます(2章1節)。
 しかし、それは初代教会だけでなく、今を生きる私たちの教会も同じです。自分自身を見ても、常に変わらず御子に従っているかというと、悔い改めの日々を過ごさざるを得ない罪深さがあります。あるいは、世が「神などない」と言い、「神を見せてみろ」と迫ってきて、答えに窮する教会の現実があります。
 先週は、オンライン会議システムで説教塾の例会が開催されました。新型コロナウイルス感染防止のため、多くの教会が礼拝堂の礼拝ができなくなっていること、インターネットを用いて録音や動画で御言葉を伝えていることなどを聞きました。また、インターネットで礼拝を済ませてしまうことになりはしないか、との懸念も語られました。「そんなことはない」と、励ましもありました。今、教会は危機の中にあります。
 ヘブライ人への手紙の著者は、現実は現実として踏まえながら、続けて語ります。9節「ただ、『天使たちよりも、わずかの間、低い者とされた』イエスが、死の苦しみのゆえに、『栄光と栄誉の冠を授けられた』のを見ています。神の恵みによって、すべての人のために死んでくださったのです」。9節の「見ています」の「見る」は「魂の目をもって見る」「注目する」「識別する」という意味です(8節の「見ていません」は、ギリシア語原文では9節とは別の動詞で「表面的に見る」という意味)。すべてがまだイエスに従ってはいない世の現実を見ながら、著者が霊の目で「しっかりと見ている」のはイエスです。9節は、「新改訳2017」では、「ただみ使いよりもわずかの間低くされた方、すなわちイエスのことは見ています。・・・」とあり、原文に近い訳でした。イエスが天使たちよりも低い者とされ、人となられたのは、死ぬためでした。「神の恵みによって、すべての人のために死んでくださった」のです。私たちは、十字架に私たちのためにその身をささげてくださった主イエス・キリストを見ています。神によって復活させられ、今も生きて、私たちのために執り成してくださるイエス・キリストをしっかりと見ています。