5月31日(日) 聖霊降臨日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   346
主の祈り
交読詩編 詩編16篇
祈  祷
聖  書  使徒 2:1~4、14~24
使徒信条
説  教  「わたしの霊を注ぐ」
賛  美  342
献  金
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌)24
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨 「わたしの霊を注ぐ」

 一同が一つになって集まっているところに(1節)、聖霊は注がれました。私たちがこうして、毎年、聖霊降臨日(ペンテコステ)の礼拝をささげ記念していくとは、この時注がれた聖霊が今も教会を生かしてくださる、と信じることです。それを抜きにしてペンテコステを記念しても何の意味もありません。聖霊が降ったことによって、弟子たちは、神の力を受けて宣教に押し出されました。その聖霊の働きが今も続いているわけです。そのような教会の始まりが使徒言行録に記されているならば、私たちもまた主イエスの言葉を信じて、キリストのもとに集まり、心を合わせ一つになって、聖霊を祈り待ち望むことが、教会のゆくべき道ではないでしょうか。使徒言行録には、弟子たち個人に神の霊の導きがあった出来事も折々に記されていますけれども、信仰の共同体が一つになって霊の導きを受けるということをないがしろにして一人一人が神の霊に導かれて動くいうことはあり得ません。
 聖霊に満たされた弟子たちは、聖霊が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだし(4節)、その言葉を聞いた人々は驚き、こう言いました。「彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な業を語っているのを聞こうとは」(11節)。けれども一方で、「あの人たちは酒に酔っているのだ」とあざける人もいました(13節)。
 そこで、ペトロが立ち上がり、説教を始めます。ペトロはまず、預言者ヨエルの言葉を引用し、今の出来事は、神がヨエルの口を通して約束されていたことが成就したのだ、と語りました。
 「神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。わたしの僕やはしためにも、そのときには、わたしの霊を注ぐ。すると、彼らは預言する」(17~18節)。
 終わりの時とはどういう時でしょうか。「これで最後。もう後がない」という時です。その時、神様が何をしてくださったのでしょうか。この後ペトロが「ナザレの人イエスこそ神から遣わされた方です」(22節)と言って、イエス・キリストの出来事を説教します。終わりの時、もう後がない、という時に、神は、神の子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。そのことによって、「主の名を呼び求める者は皆救われる」(21節)という究極の救いをもたらしてくださいました。コリントの信徒への手紙一第12章3節「聖霊によらなければ、だれも『イエスは主である』とは言えないのです」の通りです。神は、終わりの時に、すべての人に聖霊を注いで、主の名を呼び求める人を救ってくださいます。息子も娘も若者も老人も、神の霊によって、神の言葉を、神の恵みを、神の出来事を、「神の偉大な業」(11節)を語るようにされるのです。神は、今、私たちにも聖霊を注いで、今が終わりの時だということを悟らせ、キリストの救い―これ以上のものはない、かけがえのない救い―を、私たちのために差し出して、この救いを信じるようにしてくださいました。ペンテコステはそのことを喜び、感謝し、祝う時です。
 ペトロの説教を聞いた人々は大いに心を打たれて、「どうしたらいいのですか」と聞きました。ペトロは答えました。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けます。この約束は、あなたがたにも、あなたがたの子供にも、遠くにいるすべての人にも、つまり、わたしたちの神である主が招いてくださる者ならだれにでも、与えられているものなのです」(38~39節)。洗礼を受けることも、罪の赦しも、聖霊を受けることも、すべて神の恵みです。この恵みの世界に、神はすべての人を招き入れてくださるのです。