6月7日(日) 聖霊降臨節第2主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   162
主の祈り
交読詩編 詩編22:23~27
祈  祷
聖  書  ヘブライ 2:10~18
使徒信条
説  教  「救いの創始者イエス」
賛  美  531
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌)25
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨 「救いの創始者イエス」

  約2か月、新型ウイルス感染のため礼拝堂に集まることを断念せざるを得ませんでした。神の家族として主日礼拝をささげることができるのは、当たり前のことではありませんでした。礼拝の再開を心からうれしく思います。
 ヘブライ人の手紙第2章11~12節に「・・・イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、『わたしは、あなたの名を わたしの兄弟たちに知らせ、集会の中であなたを賛美します』と言い」とあります。主イエスが私たちを兄弟と呼んでくださいます。12節で詩編第22編23節を引用しています。主イエスが兄弟となってくださったのは、「あなたの名」、つまり神の御名を私たちに知らせるためでした。「わたしの天の父はあなたがたの父でもあられる」と主イエスは私たちに知らせてくださいました。人は誰も、主イエス・キリストによらなければ、父なる神にお出会いすることはできません。
 13節前半の「わたしは神に信頼します」はイザヤ書第8章17節、13節後半の「ここに、わたしと、神がわたしに与えてくださった子らがいます」はイザヤ書第8章18節の引用です。私たち教会は神の子たちの集まりです。それは私たちから出たことではなくて、主イエスが私たちの兄弟となられたことによって実現した恵みの世界です。
 それは、主イエスがまことの人となられたことによって実現したのです。「子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました」(14節)。「血と肉」とは人間のことです。イエスは、私たちと同じように死ぬべき人間となられました。しかし、イエスの死は、イエスだけが負ってくださる死でした。「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるため」(14~15節)の死だったからです。
 新型ウイルス感染拡大の状況に、主イエスによって解放されているキリスト者であるにもかかわらず、私はとても過敏になって、恐れに取りつかれそうになりました。死の恐れの奴隷状態は人間の罪の現実です。神から引き離そうとする悪魔の仕業です。自分ではどうすることもできません。その私たちのために、17節にあるとおり主イエスは大祭司となってくださいます。この大祭司である主イエスの前に、罪あるままの自分を差し出して、主イエスに罪を償って、赦していただくほかありません。
 主イエスは「試練を受けて苦しまれ」ました(18節)。主イエスは十字架の上で「わたしの神よ、わたしの神よ なぜわたしをお見捨てになるのか」(詩編22:2)と叫び声を上げざるを得ませんでした。私たちが想像することもできない死の恐ろしさ、神から捨てられ、神の呪いをうけ、神の裁きを受けられました。主イエスは「死は怖くない」と言い張ることはなさいませんでした。ゲツセマネの園で「できることならこの杯を取り除いてください。しかし御心のままに」と祈られました。叫び、嘆き、死の恐ろしさを味わわれました。だからこそ、試練を受けている私たちを助けることがおできになるのです。
 10節に「多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされた」とあります。神が私たちを栄光へ導くために、私たちの救いの「創始者」-「導き手」、「先導者」と訳すこともできます―であるイエスが、苦しみを受けることを許されました。その主イエスが人となり、苦しみを受け、死ぬことによって救いを完成させてくださいました。まったくそれは「万物の目標であり源である方」、つまり神に「ふさわしいことであった」のです。