6月14日(日) 聖霊降臨節第3主日・花の日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   351
主の祈り
交読詩編 詩編127篇
祈  祷
聖  書  ヘブライ 3:1~6
使徒信条
説  教  「神の家とされた喜び」
賛  美  474
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌)26
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨 「神の家とされた喜び」

 「もし確信と希望に満ちた誇りとを持ち続けるならば、わたしたちこそ神の家なのです」(6節)。人が誇りをもって生きることは大切なことです。けれども人は弱いもので、不安に襲われてびくびくしたり、振り回されてしまったりします。そのとき、誇りを持って生きるところから離れてしまっています。当時この手紙を受け取った教会も、この言葉を必要としていたと考えられます。教会に対する迫害があり、また教会からユダヤ教へ行ってしまう人がおり、教会の外からも内からも試練を受けている現実がありました。だからこそ、確信と希望に満ちた誇りとを「持ち続ける」ことです。信じるとは決断ですが、決断し「続ける」こと。誇りを持ちつづけよう、と呼びかけられている。それが教会です。
 1節にも教会が何であるかが語られています。教会は「天の召しに」「あずかっている」「聖なる」「兄弟たち」です。主イエスが私たちを「兄弟」と呼んでくださっていることは、既にヘブライ人への手紙第2章で見ました。主イエスが私たちの兄弟となってくださいましたから、私たちは神のもの、神に属するものとして「聖なる」ものなのです。「天の召し」とは神に選ばれているということ。「あずかっている」とは共通しているものを分け合っているという意味で「仲間である」という訳もありました。教会は神に選ばれ、それを共有している、聖なる神の家族です。教会は信仰を「公に言い表している」。その信仰とは「使者であり、大祭司であるイエス」を信じること。この1節の「考えなさい」とは「一所懸命、注目しなさい」ということです。口語訳では「イエスを思い見るべきである」でした。イエスを一心に見つめていなさい、ということです。そうでなければ、誇りを持って生きることができなくなります。
 そこで、ヘブライ人への手紙は、モーセの存在と出来事を通して、イエス・キリストの恵みがいかに大きいかを語ろうとします。2節と5節には「モーセが神の家全体の中で忠実であった」とあります。これは、民数記第12章7節の「彼はわたしの家の者すべてに信頼されている」に由来しています。民数記第12章には、モーセの兄アロンと姉ミリアムの二人が高慢になって、自分たちも神の言葉を語れると言い出した出来事が書かれています。モーセは反論せず黙っていましたが、主は介入され、アロンとミリアムとモーセをご自分の前に立たせられました。アロンとミリアムに対して、主なる神はモーセが信頼されている者であること、神ご自身が直接モーセに語られるのだと、告げられました。
 どうしてアロンとミリアムは、このような主張をしたのか。彼らの姿に、人間の心が病んでいるということを思います。エレミヤ書第17章9~10節「人の心は何にもまして、とらえ難く病んでいる。誰がそれを知りえようか。心を探り、そのはらわたを究めるのは 主なるわたしである」とありますが、この9節の最初の部分をルターがこう翻訳しました「人の心は、つっぱっているか、いじけている」。自分自身も気づかないで、心がとらえ難く病んでしまっているのです。だからこそ、その心を、はらわたを究めるのは、わたしである、と神は言われます。
 ですから私たちのために、使者であり大祭司であるイエスがおられるのです。使者とは神から派遣された者です。神であられる方がまことの人となって世に来られました。大祭司とは、人間を代表して神にとりなしてくださるということです。このイエスを仰ぎ見ましょう。イエスに注目するとは、私たちが罪人であり、罪が赦されていることをわきまえることです。確信と希望に満ちた誇りを持ち続けるとは、この神の恵みの中に立ち続けることです。そのとき私たち教会は、神が住まわれる神の家なのです。