6月21日(日) 聖霊降臨節第4主日 礼拝順序
黙 祷
賛 美 472
主の祈り
交読詩編 詩編95篇
祈 祷
聖 書 ヘブライ 3:7~19
使徒信条
説 教 「生ける神に『今日』聴こう」
賛 美 533
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌)27
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨 「生ける神に『今日』聴こう」
「あなたがたのうちだれ一人、罪に惑わされてかたくなにならないように、『今日』という日のうちに、日々励まし合いなさい」(13節)。今、こうして礼拝をささげている私たち教会の姿は、この御言葉の通りだと思います。「だれ一人」とあります。だれ一人として生ける神から離れてはいけない、という思いをもって教会に語られています。14節に「わたしたちは、最初の確信を最後までしっかりと持ち続けるなら、キリストに連なる者となるのです」とありますが、「最初の確信」とは何でしょうか。洗礼を受けるときに与えられた確信です。キリストを信じて生きようと決断し、「イエスは主である」と信仰の告白をして、洗礼を受けました。そのとき私たちの心は柔らかかったと思います。ただ、キリストの救いにすがって洗礼を受けました。「イエスは主である」とは、何があってもどこにいても、主が私たちの主(あるじ)であり、主がこの世界と歴史を支配してくださっていると信じることです。信じるとは決断です。その決断を「し続ける」。最後まで確信をしっかりと持ち続ける。それは、「今日」神の声を聴くことにあります。「今日」とは、生ける神の、永遠に変わらない神の言葉に触れるその「時」であり、それはいつも「今日」なのです。
「今日という日のうちに、日々励まし合いなさい」。この言葉を必要としていた教会の現実があったのです。ヘブライ人への手紙の著者は、最も言いたいことを伝えるために、ここで旧約聖書の詩編95篇を引用します。「今日、あなたたちが神の声を聞くなら、荒れ野で試練を受けたころ、神に反抗したときのように、心をかたくなにしてはならない」(7~8節)。イスラエルの先祖の民は、約束の地を目指して荒れ野を旅しなければなりませんでした。民は、「パンがない」「水がない」「どうしてこんなところに連れ出した」と不平を言いました。「荒れ野」とは何でしょう。それは私たちにとって「とどまりたくないところ」です。苦しみがあり、悲しみがあり、「神様を信じているのにどうしてこんなことが」と思ったり、自分を責め、人を責めて人間関係で苦しんだりなど、起こってほしくないことが起こります。私たちは「荒れ野で試練を受け」てしまうのです。
その私たちのためにキリストの救いがあります。今日の聖書箇所の「神の安息にあずかる」という言葉から、主イエスの言葉を思い起こしました。ヨハネ福音書第14章27節「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしはこれを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」。荒れ野を通らされて、私たちは心を騒がせてしまうのです。おびえてしまうのです。だから主イエスの平和が必要なのです。
この約束を語られた主イエスは、最も過酷な、だれもとどまりたくない「荒れ野」である「十字架」に身を置いてくださいました。主イエスは十字架で、私たちの罪の裁きを代わりに負ってくださいました。主イエスは、神に裁かれ、命をささげ、私たちには平和を与えてくださるのです。そのことを聖霊が悟らせてくださいます。「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14:26)。復活された主イエスが弟子たちに語られた言葉も「あなたがたに平和があるように」(ヨハネ20:19)でした。この主イエス・キリストの平和をいただいて、荒れ野の中を耐えて生きることができます。
私たちは「兄弟たち」(ヘブライ3:12)です。主イエスから「兄弟姉妹たちよ」と呼ばれている、神に愛されている神の子たちです。主によって、日々励まし合うようにされているから、私たちは互いに励まし合うのです。