6月28日(日) 聖霊降臨節第5主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   51
主の祈り
交読詩編 詩編110篇
祈  祷
聖  書  ローマの信徒への手紙第8章31~39節
使徒信条
説  教  「神の右に座するキリスト」
        〔使徒信条による説教〕
賛  美  509
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌)28
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨 「神の右に座するキリスト」

 本日は使徒信条による説教で、「全能の父なる神の右に坐したまへり」から御言葉の説き明かしをいたします。使徒信条は教会が依って立つ信仰の言葉です。神の救いが凝縮された文章です。これだけ短い使徒信条なのに、本日の箇所には「全能の父なる神」がもう一度出てきます。イエス・キリスト救いの出来事が、全能の父なる神のご支配のもとにあることを示しています。
 本日はローマの信徒への手紙第8章から、「キリストが父なる神の右におられる」という恵みを新たにされたいと思います。34節に「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる」とあります。これはどういうことでしょうか。
 まず、神が私たちの味方でいてくださるということです。31節「もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか」。これは「神が私たちの味方であるから、だれも私たちに敵対できない」と言っているのです。このことを信じ切ることができれば、何も言うことはありません。実は、私たちのほうが神の敵であったのです。この手紙を書いたパウロ自身、第5章10節で「敵であったときでさえ、御子の死によって神と和解させていただいた」と語っている通りです。神を知らず、神の敵であった人間のために、神は御子を遣わして、和解の道を開き、ご自身が人間の味方となってくださることを示されました。
 神が味方であられる。このことを信じ切ることができれば、不安はないのです。しかし、先週も申し上げたように、現実は、起こってほしくないことが起こり、とどまりたくないようなところを通らされるということが起こります。体の痛みがあり、心の痛みがあります。つらいことばかり見つめ、神が私たちの味方であることを見失ったとき、心が不安に支配されそうになります。「私は本当に神に愛されているのだろうか」と疑いに心が奪われそうになります。そのとき私たちは自分の心で神の愛を量ろうとしてしまっているのです。そんな弱い私たちのために、神は「その御子をさえ惜しまず死に渡され」(32節)ました。御子の命を差し出してくださるほどに私たちは愛されています。だから、神が味方になってくださると、キリストにあって信じることができるのです。「人を義としてくださるのは神」(33節)です。「義としてくださる」とは、神が「あなたは生きていてよい。私のもとで、私と共に、私と和解して生きよ!」と言ってくださるのです。
 これほどに力強い御言葉を語った使徒パウロは、初めからこのような信仰の人であったでしょうか。使徒言行録第7章54節以下に、初代教会の信徒ステファノが殉教した記事が書かれています。そこにサウロという若者が登場します。使徒言行録第8章1節には「サウロは、ステファノの殺害に賛成していた」とあります。このサウロが後のパウロです。パウロは教会の迫害者でした。ステファノは憎しみにかられた人々に石を投げつけられて命を落としますが、そのとき霊の目が開かれて、神の右に立っておられる主イエスを見ました(使徒7:55~56)。ステファノは殺される前に「主よ、この罪を彼らに負わせないでください」(使徒7:60)と祈りましたが、これは、主イエスが十字架にかけられるときに祈られた祈りでした。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。主イエスの祈り、ステファノの祈りが聞かれて、パウロは教会の迫害者から、福音宣教者、異邦人の使徒とされました。
 私たちが罪を赦され、信仰をもって生きているのも、この主イエスのとりなしがあるからです。主は神の右におられ、今このときも、私たちのために祈り、とりなしてくださっています。