7月5日(日) 聖霊降臨節第6主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   58
主の祈り
交読詩編 詩編119篇129~136節
祈  祷
聖  書  ヘブライ人への手紙第4章1~13節
使徒信条
説  教  「神の言葉は生きている」
賛  美  529
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌)29
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨 「神の言葉は生きている」

 今日与えられた聖書箇所には、9節の「安息日」も含めると、8回も「安息」という言葉が出てきます。著者が伝えたいことは「神の安息にあずかろう」ということです。
 3節前半には「信じたわたしたちは、この安息にあずかることができるのです」とあります。私たちは、信仰によって神の安息にあずからせていただいているのです。3節の後半は詩編95篇11節の引用です。旧約聖書の出エジプトの出来事が背景にあります。イスラエルの人々は神によってエジプトの奴隷状態から救い出されたのに、不信仰であったため、約束の地に入ることが許されませんでした。ここで著者は、神の安息とは約束の地に入ることだけでなく、実は創造の初めから人間のために備えられていた、と語るのです。4節には創世記第2章2節が引用されています。神が天地万物を創造されたのち7日目に休まれた、とあります。7日目は、やがて神の民が律法を授けられたときには「安息日」として定められ、聖別された日、仕事を休んで神を礼拝する日となりました。創世記第2章にはエデンの園が描かれていますが、それは神の安息のイメージです。祝福された命に満ち満ちた世界、楽園です。人と人との間には何のわだかまりもなく、お互いを助け手として協力して生きていました。神と人との間には愛し愛される関係がありました。
 このような安息を、神は人間のために用意してくださっているのに、「取り残されてしまったと思われる者があなたがたのうちから出ないように、気をつけましょう」(1節)と言わねばならない事態があったのです。2節で具体的に述べられます。「彼らには聞いた言葉は役に立ちませんでした。その言葉が、それを聞いた人々と、信仰によって結び付かなかった」のです。
 先週、教会の一人の兄弟が神のみもとに召されました。教会の礼拝の後の集合写真に写っている兄弟がとてもいい笑顔だったので、ご家族が遺影にされました。「聞いた言葉が聞いた人々と信仰によって結びつく」とは、このようなものだと思います。礼拝をささげ、神の言葉を聞き、感謝にあふれて、教会の仲間と共に喜び、いい笑顔になる。福音の喜びがその人の存在に深く入っていき、その人を形造っていく。神の言葉は、礼拝の説教を通して、聖書の言葉を通して告げ知らされています。私たちは、それをどう聞くのか、気をつけてまいりましょう。
 12節にこうあります。「というのは、神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して、心の思いや考えを見分けることができる」。神の言葉は生きていますから、生きて働きます。地上のもっとも鋭い剣は、関節と骨髄を切り離すことはできるかもしれませんが、神の御言葉の剣は、人の精神と霊、心の思いや考えを見分けるほどのものです。さらに、13節「神の御前では隠れた被造物は一つもなく、すべてのものが神の目には裸であり、さらけ出されているのです。この神に対して、わたしたちは自分のことを申し述べねばなりません」。この御言葉を聞くとき、罪ある自分は恐れを感じないではいられません。そのような罪ある人間のために、14節には、私たちのために偉大な大祭司、神の子イエスが与えられているのだ、と語られているのです。
 主イエスが全能の父なる神の右で、私たちのために絶えず執り成してくださるのは、私たちを神の安息にあずからせるためです。神の子が、私たちと同じ人間になられ、被造物となられ、十字架の上では裸にされ、さらけ出され、命まで取られて、私たちの贖いとなってくださったのです。「だから、わたしたちはこの安息にあずかるように努力しようではありませんか」(11節)。