7月12日(日) 聖霊降臨節第7主日 礼拝順序
黙 祷
賛 美 351
主の祈り
交読詩編 詩編121篇
祈 祷
聖 書 ヘブライ人への手紙第4章14~16節
使徒信条
説 教 「恵みはすでにある」
賛 美 493
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌)24
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨 「恵みはすでにある」
ヘブライ人への手紙の説教を聞き続けています。この手紙の特徴は「主イエスは私たちの大祭司であられる」とはっきりと主張していることです。私たちはそのことを大切に受けとめて説教を聞きたいと思います。
「大祭司」とは民に代わって神に近づく務めです。民は、大祭司に神への捧げものを持っていき、大祭司はそれを集めて神にささげました。大祭司は民の代表として、民に先立って神に向かう存在でした。
14節に「もろもろの天を通過された偉大な大祭司」とあります。当時のユダヤ人は、第7の天まであり、神が一番高いところにおられ、その間の天には悪の諸霊が存在していると考えていました。イエスがもろもろの天を通過されたとは、そのような悪の諸霊に勝利して、支配しておられるということです。旧約の大祭司にはそういうことはありません。ただ、主イエスだけがもろもろの天を通過されたのです。だから「偉大な」大祭司なのです。「神の子イエス」。ここに教会の信仰の告白があります。神であられる方が人となられ、イエスとして地上を歩まれました。その方を「与えられている」。直訳すると「持っている」。私たちがイエスを持たせていただくとまで表現しているのです。その公に言い表している教会の信仰を「しっかり保とう」。「しっかり保つ」は直訳すると「捕らえる」。「つかまえる」、「しがみつく」とも訳されます。
では、どうして私たちはそういう大祭司イエスに頼れると言えるのでしょう。それは、15節「この大祭司は私たちの弱さに同情できない方ではない」からです。私たちの弱さを分かってくださるからです。この「同情する」という言葉は、英語のシンパシー(sympathy)の語源になっています。直訳は「共に苦しむ」です。その意味は「他者の苦しみをただ外側から眺めて同情するのではなく、その苦しみのただ中に自ら入り込んでいき、相手の苦しみをそのまま自分の苦しみとして背負う」ことです。それほどまでに、主イエスは共に苦しんでくださる御方なのです。
ではなぜそのように言うことができるのでしょうか。それは主イエスが「罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われた」からです。
日本基督教団の聖書日課「日毎の糧」を、日々の祈りで用いていますが、最近はマルコによる福音書の主イエスの受難と十字架の出来事の箇所で、主イエスが苦しみを受けられたことに心を動かされていました。弟子には裏切られ、人々からは侮辱され、十字架の上では神に「なぜ私をお見捨てになった」と叫ばざるを得ないところに身を置かれました。耐えがたい試練を耐えてくださいました。私たち人間は弱いのです。「弱さ」(15節)は複数形です。肉体的な弱さ、精神的な弱さ、ハンディ、病気があり、罪があります。私たちの弱さが主イエスを苦しめたのに、その苦しめている人間の為に同情して、共に苦しんでくださいます。それほどまでに愛し、恵みにとどまることを願っておられます。
手紙の著者がこのように言わねばならなかった教会の事情があるのでしょう。教会の信仰から離れていく人がいたと思われます。苦しみでいっぱいになるとき、「あなたには私の苦しみは分からない」と言われ、言葉が届かなくなることがあります。人間の限界、無力を感じます。けれども、主イエスはそうではなく、分かってくださる。主イエスには、私たちの苦しみを預けることができます。ここに希望があります。
「だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこう」(16節)。恵みは私たちの傍らにすでにあるのです。