7月19日(日) 聖霊降臨節第8主日 礼拝順序
黙 祷
賛 美 205
主の祈り
交読詩編 詩編110篇
祈 祷
聖 書 ヘブライ人への手紙第5章1~10節
使徒信条
説 教 「永遠の救いの源」
賛 美 443
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌)25
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨 「永遠の救いの源」
先週の説教で、私たちの大祭司である主イエスは、私たちに同情してくださり(ヘブライ4:15)、「同情する」という言葉の意味は「他者の苦しみをただ外側から眺めて同情するのではなく、その苦しみのただ中に自ら入り込んでいき、相手の苦しみをそのまま自分の苦しみとして背負うこと」だとお話ししました。ある方が礼拝後に「この同情はイエス様にしかおできにならない。我々人間にはとてもできない」と言ってくださいました。
2節にこうあります。「大祭司は、自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができる」。この「思いやる」は「同情する」とも訳せますが、先の4章15節の「同情する」とは別のギリシア語なのです。この2節の「思いやる」は、「偏らないで適度に同情する」という意味で、相手の苦しみに入り込むことはないのです。2節の「大祭司」は、人間の中から選ばれる、旧約聖書の大祭司を指しています(1節)。「思いやる」というのが人間の限界ではないかと感じます。なぜなら、大祭司も弱く、自分の罪の贖いのために供え物を献げなければならない罪人であるからです(3節)。大祭司には、神に選ばれた者がその務めに就くことが4節で語られています。
5節は、詩編第2篇7節を引用して、キリストも神から選ばれたことを語り、6節では、詩編110篇4節を引用して、キリストが神に選ばれて大祭司となられた、と語っています。メルキゼデクとは人の名前ですが、この人のことは第7章以下で詳しく説かれます。
7節と8節の御言葉には、心がとても動かされます。「肉において生きておられた」とはキリストが人間となられ、この地上を生きておられたことです。「キリストは御子であるにもかかわらず、多くの苦しみによって従順を学ばれました」とあります。御子であられる方が、天にとどまることなく、人となって、地上の歩みにおいて、叫び声を上げざるを得ない、涙を流さざるを得ない、苦しまざるを得ないところに身を置いてくださいました。私たち人間の罪がキリストを苦しめました。これはゲツセマネの祈りを指しているという人もありますが、それだけではなく、主イエスは地上の生涯において、このように祈りをささげてくださっていたのではないでしょうか。私たち人間は弱いですから、苦しむと、つぶやいたり、絶望したり、不信仰に陥ったりしてしまうことがあります。しかし、キリストは、苦しみつつ、極みまで謙遜でありました。その祈りは畏れ敬う態度のゆえに神に聞き届けられました。キリストは多くの苦しみによって、かえって従順を学ばれたのです。「そして、完全な者となられた」(9節)。これは、神の救いを全うされた、ということです。「御自分を死から救う力のある方」(7節)、すなわち父なる神は、十字架で死んだキリストを復活させることによって、御子キリストの祈りを聞き届けられました。こうしてキリストは、「御自分に従順であるすべての人々に対して、永遠の救いの源」となってくださるのです。私たちは永遠の命をいただくことができるのです。神の安息に憩うことができるのです。
2節の「無知な人、迷っている人」を黙想していて、使徒パウロの言葉を思い起こしました。「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました」(テモテ一1:13)。無知であるとは、まことの神を信じないことです。もう一つ、無知であるとは、私たちが神のものであり、神の子であることを知らないことです。しかし、今は知っています。私たちは、神の家にとどまり、キリストに従っています。