7月26日(日) 聖霊降臨節第9主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   464
主の祈り
交読詩編 詩編24篇
祈  祷
聖  書  コリントの信徒への手紙二第5章1~10節
使徒信条
説  教  「主イエスに再会する日」
賛  美  226
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌)26
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨 「主イエスに再会する日」

本日は使徒信条の「かしこより来(きた)りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)たまはん」を心に留めて、聖書の言葉を聞こうとしています。「かしこより」とは「あそこから」。キリストは今、天の父の右の座におられます。そこから、この歴史と世界を正しく真実に裁くために再びおいでになります。このことを「再臨」と言います。こう語られています。「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならない」(10節)。すべての人が、キリストの裁きの座の前に立たされ、生きている間行ったすべてのことについて裁かれます。こういう御言葉を聞くと、恐れおののくこともあるかもしれません。
 ある先生のお話です。招かれて信徒のお宅に伺い、お手洗いをお借りした。用を終えて出て、どの部屋に戻るのか分からなくなり「こちらかな…」と思って行ったところ、その信徒に「先生、そちらの部屋には入らないでください!」と止められたというのです。先生は問われました。「私たちが、神様に『ここには決して入らないでください』と言うことはありませんか」。隠しておきたい自分の過ちや罪があります。しかし、キリストの裁きの前に何一つ隠すこともできません。私たちは隠れることはできません。
 十数年前に神のみもとに召された方のことを思い起こしました。その方は病弱で、寡黙で、献金当番もできませんでした。礼拝生活もそれほど長くありませんでした。弱られて、長い入院となり、ついに息を引き取られました。この方の葬儀の説教で、讃美歌21の474の4節の歌詞「終わりの知らせの ラッパの音聞く時、主の義をまといて みまえにわれ立たん」が引用され、「私たちが、神の前に立たせていただけるのは、主イエス・キリストの義によってなのである。私たちがどれだけ奉仕をしたかなど、人間の功績によって神の前に立てるのではない。この人は、奉仕もほとんどできず、礼拝生活も短かったけれど、ただ、キリストの義によって立たせていただけるのである」と説教され、そのことが心に焼き付いています。
 先の讃美歌の「主の義をまといて」とは、今日の聖書箇所でいえば、2節と4節にある「天から与えられる住みかを上に着たい」ということでしょう。キリストの義であり、神の祝福の永遠の命です。その天から与えられる住みかを切望する私たちは、「地上の幕屋にあって苦しみ悶え、重荷を負ってうめいています」(2節、4節)。こう語る使徒パウロは、特に福音を宣教していることによって、かえって「苦難、欠乏、行き詰まり、鞭打ち、監禁、暴動、労苦、不眠、飢餓」(コリント二6・4~5)に遭い、それに耐えて生きていました。私たちも現在、新型コロナウイルス感染のために、困難の中にあります。それぞれが、心や体の痛み、病い、苦しみを負っています。
 その中で、パウロは、「わたしたちは心強い」と2度も繰り返しています(6節、8節)。それは、天から与えられる住みかを確信しており、聖霊を受けているからです(5節)。この「心強い」という言葉は、ヨハネによる福音書第16章33節の「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」の「勇気を出しなさい」と同じ言葉です。主イエスから勇気をいただいて、生きていけるのです。
 キリストの裁きとは「報われる」ということでもあります。キリストが私たちの罪を赦すために犠牲となってくださったことを正しく信じる者は、罪に鈍くなることはありません。畏れと慎みをもって、主から勇気をいただいて、心を強くされ、主の再臨を待ち望むことができるようにされています。