8月9日(日) 聖霊降臨節第11主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   208
主の祈り
交読詩編 詩編111篇
祈  祷
聖  書  ヘブライ人への手紙第6章13~20節
使徒信条
説  教  「希望は魂の錨」
賛  美   184
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌)28
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨 「希望は魂の錨」

 本日の説教を準備していて、初代教会の時代、地下墳墓(カタコンベ)に、錨に結びついている魚の図柄が刻まれているということを知りました。19節の御言葉「わたしたちが持っているこの希望は、魂にとって頼りになる、安定した錨のようなもの」に由来しているのです。初代教会の人々は、私たちのように教会堂を持つことも十字架を掲げることもできませんでした。迫害の厳しい時代にはカタコンベで神を礼拝しました。遺骨に取り囲まれた中で神の名を呼ぶとはどういうことでしょうか。いつかカタコンベを訪れて、初代教会の人々がどのような思いで神を礼拝したのか、追体験してみたいです。錨には十字の部分があります。初代教会の人々はそこにキリストの十字架を見ていました。ギリシア語で「イエス・キリスト」「神の子」「救い主」の頭文字を並べると「魚」(イクスース)となるので、魚の図柄は教会(キリスト者)のしるしとして用いられました。ですから、錨に結びついている魚は、希望に生きる教会のシンボルでした。
 18節の言葉は、礼拝をささげている教会の姿と言えます。「目指す希望を持ち続けようとして世を逃れて来たわたしたちが、二つの不変の事柄によって力強く励まされるためです」。私たちは世からひととき退いて、今、こうして礼拝をささげています。礼拝によって私たちは希望を持ち続けることができ、力強く励まされます。そのことを可能にするのは二つの不変の事柄であり、その二つの事柄とは17節にあるとおり、「神の約束」と「神の誓い」です。「神は約束されたものを受け継ぐ人々に、御自分の計画が変わらないものであることを、いっそうはっきり示したいと考え、それを誓いによって保証なさったのです」(17節)。この神の約束と誓いが変わらないことを示す例として、13節から15節までに、アブラハムの出来事が紹介されているのです。
 神は、アブラハムの子孫を増やし、彼の子孫にカナンの地を与えると約束してくださいました(創世記より)。アブラハムは、サラとの間に息子イサクを授かります。しかし神から「イサクを献げよ」と命じられる試練に遭いました(創世記第22章)。アブラハムはこの神の命令に従い、イサクを屠って献げようとしたところで、神がお止めになりました。神は、アブラハムの信仰をご覧になり、「御自身にかけて誓い、『わたしは必ずあなたを祝福し、あなたの子孫を大いに増やす』と言われました」(13~14節)。「アブラハムは根気よく待って、約束のものを得た」(15節)とは、アブラハムが忍耐によって約束の子イサクを得て、イサクから子孫が増え広がることを望み見たということです。
 人は自分より偉大な者にかけて誓い、それによって反対論にけりをつける(16節)、とありますが、自分が正しいと思い自己主張するときにはその誓いも却下されることもあります。人間の誓いとは頼りないものです。しかし偉大な神が自らにかけて誓う誓いは、決して変わらず、揺るがないのです。神の約束と誓いは変わりません。この確かさに支えられているから、希望は魂の錨なのです。この錨は、今、神の右の座におられるキリストにしっかりと下ろされて、錨の鎖に私たち一人一人は結ばれています。
 19節後半に、この希望は「至聖所の垂れ幕の内側に入って行くもの」であり、20節には「イエスは、わたしたちのために先駆者としてそこへ入って行」かれた、とあります。至聖所とは、最も神聖な場所、神がおられるところであり、旧約聖書では、年に一度、贖罪日に、大祭司だけが入れる場所でした。主イエス・キリストが先駆者としてそこに入って行かれたことによって、私たちは神とお出会いでき、救いの道が開かれたのです。キリストは大祭司として、いつも執り成していてくださるのです。