8月16日(日) 聖霊降臨節第12主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   543
主の祈り
交読詩編 詩編133篇
祈  祷
聖  書  ヘブライ人への手紙第7章1~19節
使徒信条
説  教  「希望によって神に近づく」
賛  美   280
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌)29
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨 「希望によって神に近づく」

 本日の聖書箇所から、主イエス・キリストがメルキゼデクと同じような大祭司であることが説かれます。
 メルキゼデクは「王たちを滅ぼして戻って来たアブラハムを出迎え、そして祝福しました」(1節)。これは創世記第14章の出来事に由来しています。アブラハムは、離れて暮らしていた甥のロトと家族と財産が王たちに奪われてしまったので、ロトを取り返すために戦いました。ロトと財産を取り戻して帰ってきたとき、メルキゼデクがアブラハムを出迎えて祝福したのです。メルキゼデクという名の意味は「義の王」そして「平和の王」です(2節)。「義」と「平和」とがあることが大切です。アブラハムがメルキゼデクから受けた祝福は義に生きること、そして平和に生きることでした。聖書の「平和」はヘブライ語で「シャローム」です。創世記第1章・第2章に描かれている、神が創造された世界です。それぞれのいのちが本来あるべきところでふさわしく生かされ、互いに生かし合っている世界です。その状態が「シャローム」(平和)です。神と人との関係も、神に愛され、神を愛し、人は神に憚(はばか)ることなく近づくことができる、健やかで、正しい関係。それが「義」に生きることです。
 主イエス・キリストはメルキゼデクと同じような祭司です。キリストは、私たちを祝福し、私たちが義に生きられるように、平和に生きられるようにしてくださったのです。
 アブラハムの時から時代が下り、やがて律法が定められ、レビ族が祭司の職を担うことも、レビ族が他の部族から十分の一を受け取って生きることも律法に定められました。8節の「死ぬはずの人間」とはレビ族の祭司を指しています。「生きている者と証されている者」とはメルキゼデクを指していて、これは17節で引用されている詩編110篇4節にあるとおり、メルキゼデクが永遠の祭司であるからです。
 以上、本日の聖書箇所の前半部分では、メルキゼデクについて語られました。後半部分では、キリストがメルキゼデクのような祭司であることが説き明かされます。
 14節に「わたしたちの主がユダ族出身であることは明らかですが、この部族についてはモーセは、祭司に関することを何一つ述べていない」とあります。キリストは人となられ、ナザレのイエスとして生きられました。歴史的人間としてのイエスはユダ族出身ですから、レビ系統の祭司制度では絶対に祭司になれる立場にはありません。ですから、イエス・キリストが大祭司であられるとは、レビ系統の祭司制度の延長線上ではなくて、それを超えて立てられたことによるのです。なぜそう言えるかというと、17節で詩編110篇4節が引用されているとおり、主イエス・キリストこそ永遠にメルキゼデクと同じような祭司である、と預言されていたからです。前半部分で述べたように、レビの父祖であるアブラハムを祝福したメルキゼデクは、レビ系統の祭司制度によらない祭司として登場しました。メルキゼデクは、大祭司キリストの前ぶれ、予表であったのです。
 キリストは「朽ちることのない命の力によって」祭司として立てられました(16節)。キリストは死に支配される方ではありません。十字架の贖いを成し遂げ、三日目に復活し、今は神の右の座におられる命の支配者なのです。
 「もっと優れた希望」(19節)とは、キリストがメルキゼデクと同じような祭司であることです。キリストが、神との交わりに私たちを招き入れてくださいました。わたしたちは、この希望によって神に近づくことができます。主の日の礼拝こそがまさにそうなのです。私たちは希望に生きているのです。