9月6日(日) 聖霊降臨節第15主日 礼拝順序
黙 祷
賛 美 18
主の祈り
交読詩編 詩編115篇
祈 祷
聖 書 ヘブライ人への手紙第7章26~28節
使徒信条
説 教 「ただ一度の救い」
賛 美 533
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌)26
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨 「ただ一度の救い」
本日の聖書箇所の26節「このように聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司こそ、わたしたちにとって必要な方なのです」の「必要な方」とは主イエス・キリストです。この御言葉に「アーメン」(本当にそうです)と言えれば良い。教会の伝道とは「あなたにとって必要な方が、もうすでに与えられていますよ」と伝えることです。
キリスト教放送局FEBCのラジオ番組をいつも聴いています。最近の番組でリスナーからの質問がありました。「伝道をしたいと思っていますが、『あなたは罪人だ』と言うと相手が傷つくのではないですか。私も心が痛みます。伝道はパワーが要ります。どのようにすればいいのですか」。番組のパーソナリティが丁寧にお返事されました。「伝道とは、『あなたも私も神様に愛されていますよ』とお伝えすることではないでしょうか。聖書の『罪』と人間同士の使う『罪』は意味が違うので『あなたが罪人だ』というと誤解が生じます。まず、あなた自身が喜んでいることを分かち合ってみてはいかがでしょうか。パワーは神様がくださいます。語る言葉も聖霊が与えてくださいます。人は信頼している人の話は聞きます。誠実に、日々、その人に向き合い、信頼関係を築き、祈ることが大事ではないでしょうか」。なるほどと思いました。
私たちにとって必要な方として、神は、主イエス・キリストを大祭司として立ててくださいました。そこに、私たちへの神の愛を見るのです。何よりも私たちの罪が赦されるための必要であり、私たちが罪に打ち勝つために必要であったのです。この「必要な」という言葉は、ヘブライ人への手紙第2章10節「多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」の「ふさわしい」と同じ言葉です。キリストは私たちの罪が赦されるために必要な方であり、ふさわしい方でありました。そのことをヨハネによる福音書第13章の冒頭の出来事に見たいと思います。
主イエスは弟子たちを「この上なく愛し抜かれ」(ヨハネ13:1)、手ぬぐいを取り、ひざまずいて、弟子たちの足を洗い始められました。これは当時奴隷の仕事とされていました。ペトロの番が来たとき、彼はこう言います。「わたしの足など、決して洗わないでください」。しかし主イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」とお答えになりました(ヨハネ13:8)。これはとても大切です。主イエスと私との関係は、主が私の足を洗ってくださることによって始まるのです。人間からではないのです。洗足の御業はしるしです。自分の足を差し出すとは、罪、汚れ、弱さある自分をそのまま主イエスに差し出すことです。主イエスが足をきれいにしてくださったように、主の十字架で流された血潮によって、私の罪はぬぐい去られ、洗い清められる、つまり、罪が赦されるのです。このようにして、私たちの罪が赦されるために必要な方として、ふさわしい方としてキリストがいてくださいます。
かつて旧約時代の大祭司たちは自分の罪のため、民の罪のために繰り返し動物の犠牲を必要としていました。しかし、天におられる大祭司キリストは、ただ一度、ご自身をいけにえとして献げてくださいました(27節)。このいけにえは、一度ですべての必要を満たす完全な犠牲です。この犠牲によって、主イエスに罪を赦された私たちは、小さなキリスト、小さな祭司として生かされています。「あなたも私も神に愛されていますよ」と分かち合い、隣人のために祈ります。その祈りを、大祭司であるイエスが父なる神に執り成してくださいます。何と大きな恵みでしょう。