9月13日(日) 聖霊降臨節第16主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   472
主の祈り
交読詩編 詩編23篇
祈  祷
聖  書  ヘブライ人への手紙第8章1~6節
使徒信条
説  教  「天地をつなぐ大祭司」
賛  美   531
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌)27
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨 「天地をつなぐ大祭司」

 本日の聖書箇所であるヘブライ人への手紙第8章1~2節を読んで、讃美歌21-18番の「心を高く上げよ!」が思い起こされました。18番の1節の歌詞はこうです。「『心を高く上げよ!』 主のみ声に従い、ただ主のみを見上げて、心を高く上げよう」。この讃美歌の信仰と同じ心で、ヘブライ人への手紙の著者は、天におられる私たちの大祭司、主イエス・キリストを一心に見つめています。「私たちにはこんなに素晴らしい大祭司が与えられているのですよ」と一所懸命に教会に語ります。
 ヘブライ人への手紙の著者は、たびたびキリストが偉大な大祭司であることを、旧約聖書の祭司と比較して語っています。ここでもそうです。キリストは「天におられる大いなる方の玉座の右の座に着き、人間ではなく主がお建てになった聖所また真の幕屋で、仕えておられる」(1~2節)。旧約の祭司は人間から選ばれ、人の手で建てた地上の聖所で、民のために神に仕える存在でした。しかし、大祭司キリストは、父なる神の右の座に着いて、天の聖所で、私たちのために仕えてくださっています。この「仕える」という言葉は、「他の人々のために働く」という意味があり、「礼拝する」という意味もあります。
 地上の祭司は「供え物といけにえとを献げるために、任命されています」(3節)。この「供え物」は食べ物で、「いけにえ」とは動物の犠牲です。地上の祭司はこれらの献げ物を何度も繰り返し献げなければなりませんでした。キリストも大祭司ですから「何か献げる物を持っておられなければなりません」(3節)が、ご自身をただ一度いけにえとして献げられました(7章27節)。このいけにえは、一度ですべての必要を満たす完全な犠牲でした。
 旧約の祭司たちは、「天にあるものの写しであり影であるものに仕えて」いたのです(5節)。かつて神がモーセに幕屋を建てるようお命じになったとき、こう言われました。「見よ、山で示された型どおりに、すべてのものを作れ」(5節。出エジプト記25章40節の引用)。「型」の由来は天にあるのですから、地上の幕屋は「写し」であり「影」でした。それは、本来のものが来るまでの暫定的なもの、仮のものであったのです。地上の祭司は仮のものに仕えていたのです。「しかし、今、わたしたちの大祭司は、それよりはるかに優れた務めを得ておられます」(6節)。
 このことを、ヨハネによる福音書第4章16節以下より、イエスとサマリアの女との対話を手掛かりに理解したいと思います。主イエスによって、今の暮らしを言い当てられたサマリアの女は「あなたは預言者だ」(ヨハネ4:19)と言い、面白いことに礼拝の話を始めます。主イエスは彼女に「あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」(ヨハネ4:21)と言われました。まことの礼拝は場所によらないのです。さらにイエスは「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。『今がその時である』」(ヨハネ4:23)と言われました。女が「キリストが来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださる」(ヨハネ4:25)と言うと、イエスは「それ(キリスト)は、わたしである」(ヨハネ4:26)と自己開示されました。「今がその時」。私たちは、キリストによって時が来たことを知らされるのです。まことのものが到来したからには、今まで仮であった「写し」や「影」は過ぎ去っていくのです。
 こうして大祭司キリストは「更にまさった約束に基づいて制定された、更にまさった契約の仲介者」(6節)となってくださいました。「更にまさった契約」については次回説教します。「仲介者」キリストは、神と民との間に立って、両者を和解させ、互いに愛し合うようにしてくださいました。感謝します。