9月20日(日) 聖霊降臨節第17主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   58
主の祈り
交読詩編 詩編46篇
祈  祷
聖  書  ヘブライ人への手紙第8章7~13節
使徒信条
説  教  「心に神の言葉を」
賛  美   505
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨 「心に神の言葉を」

 イエス・キリストは大祭司であり、天の聖所で私たちのために常に執り成していてくださいます。この「執り成し」について、がん哲学カフェでお世話になっている樋野興夫先生のことを思いました。樋野先生は子供の頃よく熱を出し、住んでいた漁村は無医村だったので、お母様がそのたびに樋野先生をおんぶして、医者のいる隣村まで連れて行ったそうです。だから樋野先生は「村に医者がいれば、母がこんな大変な思いをしないですむのに」と、幼いときに医師になろうと決めたそうです。お母様が我が子の命を救うために、骨身を惜しまず、犠牲を払って、医者の所に連れて行ったこと。ここに執り成す人の姿を見ます。
 私たちを救うために、絶えず、天で執り成していてくださる大祭司主イエスは、「更にまさった契約の仲介者」(ヘブライ8:6)となられました。「更にまさった契約」とは、エレミヤの口を通して神が約束された「新しい契約」のことです(8節。本日の聖書箇所にはエレミヤ書第31章31~34節が引用されている)。
 この新しい契約を実現するために、神は「わたしの律法を彼らの思いに置き、彼らの心にそれを書きつけよう」(10節)、つまり人間の内側に生ける神の言葉を置き、書いてくださるというのです。そのとき人々は同胞や自分の兄弟に、「『主を知れ』と言って教える必要はなくなる」(11節)のです。私は、説教塾で仲間の牧師たちと「主を知っていただきたい」と届く言葉を求めて、悩み、苦闘しています。私たちは、家族や友に主を知ってもらいたいと祈っています。子供が小さいときは親と一緒に礼拝に来てくれたのに、中学生になって部活が始まると来なくなったことも何度も体験しています。ですから「主を知れ」と教える必要がない時が来るとは、本当に驚きですし、大きな望みです。
 イスラエルの父祖たちは、かつてシナイ山で与えられた契約に、忠実に生きることができませんでした(9節)。神はそのような不実な神の民をお見捨てにならず、新しい契約を結ぶと約束してくださいました。神の言葉が心に置かれるので、契約から離れることはありえず、忠実に生きることができるのです。神は、「彼らの不義を赦し、もはや彼らの罪を思い出しはしない」(12節)と赦しを宣言してくださいました。
 この赦しの宣言から、ヨハネによる福音書第8章1節~11節の出来事と主イエスの赦しの言葉を思い起こしました。姦淫の罪を犯して、人々の前に連れて来られた女がいました。律法では姦淫は石打ちに処せられるべき罪でした。イエスはご自分を訴える人々に「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました。誰も返事ができず、一人また一人と立ち去って、ついにイエスと女だけになりました。イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と、赦しを宣言し、新しい歩みへ押し出してくださいました。人は愛に触れた時、その愛に応えて生きることを願うようになります。この女もそうだと思います。神が私たちの心に書いてくださる言葉は、何よりも主イエスの赦しの言葉であり、神の愛の言葉です。
 神はこの新しい契約を「イスラエルの家と結ぶ」(10節)のであって、個人と結ぶのではありません。「イエスは主である」と信じる者に新しい契約は実現しています。イスラエルの家とは、霊のイスラエル、つまりイエスを主とする教会です。「主を知る」とは、主イエスの赦しの愛を知ることであり、主に従うことです。神が、小さな者から大きな者に至るまで、子供でも大人でも、聖書をよく知らず礼拝に来たばかりの人でも、長い信仰生活を過ごしている人にも、心に神の愛の言葉を書いてくださいます。