9月27日(日) 聖霊降臨節第18主日 礼拝順序
黙 祷
賛 美 390
主の祈り
交読詩編 詩編40:6~12
祈 祷
聖 書 使徒言行録第20章25~35節
使徒信条
説 教 「教会を信じます」
〔使徒信条による説教〕
賛 美 544
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨 「教会を信じます」
本日は使徒信条による説教です。前回は「我は聖霊を信ず」を学びました。使徒信条はこう続きます。「聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず」。これらは聖霊の御業です。「私は教会を信じます」と言っているのです。それはいったいどういうことなのでしょうか。本日は、使徒言行録に記されている使徒パウロの言葉から、教会とは何であるかを改めて受け取りたいと思います。使徒言行録第20章17節以下を読んでいきます。
使徒パウロはミレトスの町にいて、エフェソの町の教会の長老たちに別れを告げるため、彼らをミレトスに呼び寄せました。長老たちが集まってきたとき、自分が聖霊に促されてエルサレムに行くこと、そこでは投獄と苦難が待ち受けていると、はっきりと語りました。パウロにとって投獄と苦難はエルサレムに行く妨げにはなりませんでした。なぜなら「主イエスからいただいた、神の恵みの福音を力強く証しするという任務を果たすことができさえすれば」(24節)、命も惜しくはないと思っていたからです。
もう二度とエフェソの教会の人々に会うことはできないと分かっていたパウロは、長老たちに大切な言葉を、まるで遺言のように語ります。「どうか、あなたがた自身と群れ全体とに気を配ってください。聖霊は、神が御子の血によって御自分のものとなさった神の教会の世話をさせるために、あなたがたをこの群れの監督者に任命なさったのです」(28節)。
まず「あなたがた自身に気を配れ」と言っています。まず自分です。箴言第4章23節「何を守るよりも、自分の心を守れ。そこに命の源がある」、この格言を思い起こしました。そして、それと同時に「群れ全体に気を配れ」と言うのです。「群れ」とは「神が御子の血によってご自分のものとなさった神の教会」です。羊の群れに例えているのです。羊飼いはキリストです。弟子たち(教会員)は羊です。地域教会においては、長老たちが群れの監督者として仕えます。それは聖霊による任命です。聖霊によってその務めに立てられているのです。
パウロは、自分が去っていった後、異なる教えを持ち込む人々が外から入って来て、残忍な狼のように教会を荒らしてしまうと、また教会の中からも邪説を唱えて教会員を自分に従わせようとする者が出てくると、悲しいことを予告します(29~30節)。これらは、パウロが身をもって経験したことでした。彼は、迫害され、人々からさげすまれ、自分が語る言葉もなかなか届きませんでした。パウロがこう予告したのは、人間がどんなに過ちを犯しやすいものであるか、冷静に見据えていたからです。
このような試練があっても聖霊の働きを信じぬくように、パウロは私たちに道を示します。それは、教えてられてきたことを思い起こし、目を覚ましていることです(31節)。さらに「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができる」(32節)と語られています。教会は、神と神の恵みの言葉とにゆだねられています。「造り上げる」という言葉には「家を建てる」という意味があります。神の家である教会が、外側から、あるいは内側から崩されるようなことが起こっても、神の恵みの言葉を聞くことによって、建て直し続けるのです。そのために教会には説教者が立てられています。神の恵みの言葉が語られ、聞かれるために、教会を整えることが、先ほどの「自分自身と群れ全体に気を配る」ことです。聖霊が助けてくださいます。この神の御業としての教会を信じます、教会は神のもの、と信仰の告白をするのです。