10月4日(日) 聖霊降臨節第19主日 礼拝順序
          世界聖餐日・世界宣教の日
黙  祷
賛  美   11
主の祈り
交読詩編 詩編145:1~9
祈  祷
聖  書  ヘブライ人への手紙第9章1~14節
使徒信条
説  教  「キリストは恵みの大祭司」
賛  美   449
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨 「キリストは恵みの大祭司」

 本日の聖書箇所においては「礼拝」が主題となっています。1節、6節、9節、14節に「礼拝」という言葉が出てきます。キリストがおいでになったので、礼拝が新しくなったことが語られています。
 日本社会では、神社では何をするか、お寺では何をするかは、キリスト者である私たちもある程度は知っています。神社やお寺の建物自体、入った人がお参りできるようになっているからです。しかし、キリストの教会の建物を見ても、そこで何をするのか分かりません。教会が関心を持っていることは「私と神との関係」と「私たちと神との関係」だからです。今日の聖書箇所でいえば、9節や14節にある「礼拝をする者の良心」を問題にしているからです。教会堂は礼拝するためにありますが、礼拝に出てみなければ教会が何をしているかは分からないのです。教会の礼拝で、聖書が説かれ、福音が語られ、聞かれます。それによって、私たちは見えない神がキリストを遣わしてくださったこと、礼拝で神にお出会いできることを信じるようになります。
 1節の「最初の契約」とは、直前の8章13節にある通り、「古びてしまった」と宣言され、間もなく消えうせる契約です。「旧約」と理解してよいでしょう。1節から5節までには、旧約における礼拝について、出エジプト記第25章をもとに語られていますが、「今はいちいち語ることはできません」(5節)。それらが最重要ではないことを意味しています。
 続いて、6節から10節までは、祭司が聖所で何をするのか、それにはどういう意味があるのかが語られています。幕屋、聖所、器具、供え物が設けられて、祭司たちは礼拝を行うために、第一の幕屋に入ります(6節)。「第二の幕屋」(7節)とは至聖所です。そこには他の人は決して入ってはならず、年に一度、大祭司だけが入ります。大祭司は、自分自身のためと民の過失のために献げる血を必ず携えて行くのです。現代を生きる私たちにとって、この幕屋の礼拝は、何千年前のことであって、自分たちに関係ないように思えるのですが、次の8節と9節で結び付けられるのです。「この幕屋とは、今という時の比喩です」(9節)。「今」、聖所への道は、私たちにはまだ開かれていない、すなわち、神とお出会いできる道は開かれていないと、聖霊が示されるのです(8節)。
 ですが「キリストは、既に実現している恵みの大祭司としておいでになったのです」(11節)。地上の聖所ではなくて、「更に大きく、更に完全な幕屋」を通られて。完全な幕屋とはキリストご自身です。キリストはただ一度聖所に入って永遠の贖いを成し遂げられました(12節)。こうして、ヘブライ人への手紙の著者は、キリストの十字架の出来事を、旧約の礼拝と対比して、新しい礼拝の時が来たと伝えているのです。私たちはキリストに救われてはじめて、聖所への道が開かれた「時」が自分にも訪れたと知るのです。そして、「永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血」こそが、「わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせてくださる」(14節)のです。礼拝において実現しているのです。
 10節に「これらは・・・改革の時まで課せられている肉の規定にすぎません」とあります。「肉の規定」とは、外側のことであって、礼拝する者の良心を完全にできませんでした。しかし「改革の時」は恵みの大祭司キリストの到来によって訪れました。この「改革」という言葉は、法が変わることによって社会全体の仕組みが変わるという意味があるそうです。キリストが恵みの大祭司としておいでなったので、新しい礼拝の時代が訪れました。恵みの大祭司キリストから目を離さないでいましょう。