10月11日(日) 聖霊降臨節第20主日 礼拝順序
           神学校日・伝道献身者奨励日
黙  祷
賛  美   432
主の祈り
交読詩編 詩編24篇
祈  祷
聖  書  ヘブライ人への手紙第9章15~28節
使徒信条
説  教  「ただ一度の決定的な救い」
賛  美   543
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨 「ただ一度の決定的な救い」

 先週は日光オリーブの里アシュラムに参加できました。講師の榎本恵先生が「早天祈祷会で主の祈りを共に声を合わせて祈ることができ、恵まれた」とおっしゃっていました。コロナのために、アシュラムセンターもまた、多くの集会が中止や延期となりました。オンライン集会もしていますが、賛美や祈りを合わせることはとても難しいそうです。共に祈れること、神の御前に礼拝できることは当たり前のことではないと、改めて確認しました。
 前回の説教では、恵みの大祭司キリストがおいでになり、新しい礼拝の時代が到来した、とお伝えしました。キリストによって、私たちは神の御前で礼拝できるのです。その新しい礼拝の根拠は、キリストが流された血による罪の贖いです。
 「こういうわけで、キリストは新しい契約の仲介者なのです。それは、最初の契約の下で犯された罪の贖いとして、キリストが死んでくださったので、召された者たちが、既に約束されている永遠の財産を受け継ぐためにほかなりません」(15節)。キリストの十字架の死の出来事は、最初の契約、つまり、旧約の下にある人々の罪の贖いであったというのです。キリストが人として来られた時代をはるかにさかのぼっています。これは、時代を貫いてキリストの贖いは有効であることを示しています。それは、神のものされた人々が永遠の財産を受け継ぐためでした。財産は子でなければ受け継ぐことができません。私たちに永遠の命の祝福を与えるために、キリストは罪の贖いとなり、私たちは救われ、神の子とされ、祝福を受けることができるのです。こうして神の御前に私たちが立たせていただけるのです。
 20節ではモーセが 「これは、神があなたがたに対して定められた契約の血である」と宣言したことが語られ、さらに22節には「ほとんどすべてのものが、律法に従って血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえない」とあります。最初の契約においても、動物の犠牲の血による清めがなければなりませんでした(18節)。
 最初の契約、旧約の下にある礼拝は、「天にあるものの写し」であり、本来のものは「天にある」のです(23節)。天にあるものの写しであった聖所、礼拝の器具、幕屋などをいけにえの血で清めなければならなかったのですから、天にある聖所は、はるかにまさったいけにえによって清められなければなりません(23節)。そのいけにえとはキリストご自身でした。そのいけにえが旧約の動物の犠牲と同じであったなら、キリストは「天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました」(26節)。「天地創造の時から」とは、世の初めから、ということです。キリストの十字架による救いは、世の初めから世の終わりまで、時代を貫いて有効なのです。創世記を思い起こせば、アダム、エバ、カインの罪も、ノアの時代の人々、族長たちの罪が取り去られているのです。私たちの罪も、私たちがこれから犯す罪も、地上にあるすべての人の罪も、これから生まれる人々の罪も取り去られているのです。キリストの罪の贖いは、一度で完全な、決定的な救いなのです。
 続いて、キリストの再臨が語られます。キリストは「二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです」(28節)。キリストの十字架の出来事は、ただ一度で完全な、決定的な救いですが、それは、今はまだ信じる者のみが認めていることです。キリストが再び来られるとき、すべてのものにキリストの救いが完全であったことが明らかにされるのです。希望の到来の約束です。