10月18日(日) 聖霊降臨節第21主日 礼拝順序
黙 祷
賛 美 87
主の祈り
交読詩編 詩編40:1~12
祈 祷
聖 書 ヘブライ人への手紙第10章1~18節
使徒信条
説 教 「永遠に完全な救い」
賛 美 436
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨 「永遠に完全な救い」
ヘブライ人への手紙の時代、初代教会では、外からの迫害があり、それゆえに内側からは教会を離れていく人が起こっていました。集会の困難がありました。この手紙は、そのような試練の中にあっても、キリストから目を離さないでいよう、集会を続けよう、という慰めと励ましの書なのです。
旧約の礼拝では、神に近づく人たちを完全な者にすることはできませんでした(1節)。動物の犠牲が繰り返しささげられても、罪の自覚がなくなることなく(2節)、かえって「これらのいけにえによって年ごとに罪の記憶がよみがえって来るのです」(3節)。
そこでキリストが世に来てくださいました。ここで5節から7節までは、「ギリシア語に翻訳された旧約聖書」(七十人訳)の詩編第40篇7節から9節までの引用になっています。新共同訳の詩編第40篇7節には「わたしの耳を開いてくださいました」とありますが、ヘブライ人への手紙では「わたしのために体を備えてくださいました」(5節)となっています。それは、ギリシア語旧約聖書がそうなっているからです。これがかえって預言となったのです。ヘブライ人への手紙では、この詩編をキリストが神に向かって語っておられると解釈しています。「わたしのために体を備えてくださいました」とは、まさに受肉、神の子キリストが人となられた出来事を指していると言えます。キリストは神に「御覧ください。わたしは来ました。御心を行うために」と言ってくださいました(7節、9節)。「この御心に基づいて、ただ一度イエス・キリストの体が献げられたことにより、わたしたちは聖なる者とされたのです」(10節)。この「ただ一度」は「一度で完全、一度ですべて」という意味です。14節には「キリストは唯一の献げ物によって、聖なる者とされた人たちを永遠に完全な者となさった」のです。キリストの救いは永遠に完全なのです。
ところが、キリスト者であっても、「罪の自覚がなくなる」(2節)ことがなく、「罪の記憶がよみがえって来る」(3節)人もおり、自責の念に苦しんでいる人もいます。自分を「永遠に完全な者」(14節)とはとても思えないという人もいます。御言葉の約束と自分の現実とをどのように考えればいいのでしょう。
最近、朝の祈りでちょうど読んでいた、ルカによる福音書第22章の、主イエスがペトロに語られた言葉を手掛かりにして、考えたいと思います。主イエスは逮捕される前、ペトロに「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」と言われました(ルカ22:32)。ペトロがこの言葉を聞き入れなかったので、主イエスは「あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう」(ルカ22:34)と言われました。この予告通りにペトロは主を知らないと三度言いました。つまり、ペトロ自身が自覚していない罪まで、主イエスは知っておられ、赦しておられました。主イエスが神の右の座で絶えず祈ってくださっているからこそ、私たちは信仰を得ているのです。主イエスはペトロを「あなたは必ず立ち直る。その時は兄弟たちを力づけるがよい」と見ていてくださる。それは私たちにも同様なのです。自分で自覚できる罪は大したことはありません。主の御前でこそ、まことに罪は深く自覚されて、同時に、主によってその罪が完全に赦されていることを知るのです。
ヘブライ人への手紙第10章16節・17節は、エレミヤ書第31章33節・34節の引用です。「もはや彼らの罪と不法を思い出しはしない」(17節)と主は言ってくださるのです。それは、主イエス・キリストが、すべての人の罪を贖う供え物となってくださったからです。私たちは罪から解放されているのです。