10月25日(日) 降誕前第9主日 礼拝順序
黙 祷
賛 美 409
主の祈り
交読詩編 詩編84篇
祈 祷
聖 書 エフェソの信徒への手紙第4章1~16節
使徒信条
説 教 「教会を造り上げる愛」〔使徒信条による説教〕
賛 美 483
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨 「教会を造り上げる愛」
本日は使徒信条による説教です。「聖なる公同の教会」とはどういうことかを学びます。まず「聖なる」ですが、この言葉は道徳的に正しいということよりも、もともとは「区別する」「分離する」という意味があります。「聖なる教会」とは「神の御用のために世から分離された教会」ということなのです。教会は「神のもの」であるゆえに、聖なるものとされています。
「公同の教会」とはどういうことでしょうか。これは平たく言うと「キリストの教会はどこにあっても、いつでも同じ」ということです。今も昔も教会の本質は変わることはありません。それは何に由来するか。神はいつでもどこでも同じ神であられますから、その神のものとされている教会は、いつでもどこでも同じ教会なのです。それは聖霊の業として信じることです。この「教会」とは、教会堂という建物ではなく「信仰の共同体」のことです。
本日の聖書箇所は「聖なる公同の教会を信じる」とはどういうことかを伝えてくれていると言えるでしょう。
まず何よりも「神から招かれたのです」(1節)。だからこそ、私たち一人ひとりは今、教会におらせていただいています。神の招きに応えて洗礼を受け、キリストの体である教会の部分とされています。ですから「その招きにふさわしく歩み」とは当然のことです。1節から6節までに、ギリシア語原文では「エン」、直訳すると「中で」という言葉が5回使われています。そこに注目してみますと、1節の「主に結ばれて」は「主の中で」、2節の「愛をもって」は「愛の中で」、3節の「平和のきずなで結ばれて」は「平和のきずなの中で」、4節「一つの希望に」は「一つの希望の中で」、6節「すべてのもののうちに」は「すべての中で」となります。キリスト者はこのように、既に主の中で、主から与えられる愛、平和、希望の中で、つまり主の恵みに生かされています。だからこそ、「一切高ぶることなく、柔和で、寛容の心を持ちなさい。愛をもって互いに忍耐し、平和のきずなで結ばれて、霊による一致を保つ」(2~3節)ことができるのです。神は唯一であられ(6節)、主は一人(5節)であり、そのキリストの体は一つ(4節)ですから、教会はいつでもどこでも同じ、「公同の教会」なのです。
そのようにして神に招かれ、キリストの体である教会に入れられた私たち一人ひとりに「キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(7節)。神は人を十把一絡げのように取り扱うお方ではありません。一人ひとりにふさわしく賜物を与え、恵みによって整えてくださるのです。神が、御言葉を語る人(使徒、預言者、福音宣教者、牧者、教師)をお立てになりました(11節)。その人たちの語る福音を聞いて、教会に生きる者たち(聖なる者たち)は「奉仕の業に適した者とされ、キリストの体を造り上げていきます」(12節)。私たちが神から招かれたのは、キリストの体を造り上げるためでした。教会は「あらゆる面で、頭であるキリストに向かって成長して」いきます(15節)。教会は、あらゆることにおいてキリストを目指していくのです。キリストに集中するのです。その原動力は神の愛、キリストの愛です。「キリストにより、体全体は、あらゆる節々が補い合うことによってしっかり組み合わされ、結び合わされて、おのおのの部分は分に応じて働いて体を成長させ、自ら愛によって造り上げられてゆくのです」(16節)。キリストから目を離してうろうろしてしまうと、「人々を誤りに導こうとする悪賢い人間の、風のように変わりやすい教えに、もてあそばれたり、引き回されたり」してしまいます(14節)。私たちはキリストの大きな愛の中で生かされています(エフェソ3:18)。ですからキリストに集中するのです。