11月1日(日) 降誕前第8主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   385
主の祈り
交読詩編 詩編16篇
祈  祷
聖  書  ヘブライ人への手紙第10章19~25節
使徒信条
説  教  「主は新しい生きた道」
賛  美   516
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨 「主は新しい生きた道」

 「兄弟たち」と呼びかけられています(現代なら「兄弟姉妹たち」がふさわしいと思いますが)。私たちは独りで礼拝するのではありません。教会はこのように時を定めて集まり、兄弟姉妹が共に礼拝をします。福音を聞き、聖餐を祝います。教会は、神の家族、キリストの体です。教会は「イエスの血によって聖所に入れると確信しています」(19節)。私たちの力によるのでも、業によるでもありません。主イエスが十字架で流された血によって、イエスの後に続いて、私たちも聖所に入ることができます。この「確信しています」とは「大胆に」「はばかることなく」とも訳されている言葉です。私たちは遠慮しないで、主イエスの後に続くことができます。もちろんこれは、人がやりたい放題をしてよい、ということではありません。旧約の幕屋あるいは神殿には、聖所と至聖所の間に「垂れ幕」があり、人が入れないよう隔てるものでした。旧約の大祭司は年に一度だけその垂れ幕を通って、至聖所で贖いをしました。新約の時代は「ご自分の肉」、つまりイエスのお体が垂れ幕だというのです(20節)。何と大胆なことが言われていることでしょう。それは人を隔てるためではなく、私たちが通るための「新しい生きた道」であるというのです。遠慮しないで、はばかることなく、この恵みの道を通って聖所に入れることができるのです。
 「更に、わたしたちには神の家を支配する偉大な祭司がおられる」(21節)。十字架の出来事は復活へと続きます。復活し、天に昇られた主イエス・キリストは、大祭司として執り成していてくださる。キリストが神の家である教会を治めてくださるのです。ですから、「心は清められて、良心のとがめはなくなり、体は清い水で洗われています」(22節)。「体は清い水で洗われています」とは洗礼を受けているということです。こうして、キリストに救われた私たちは、「信頼しきって、真心から神に近づこうではありませんか」(22節)。つまり「近づけるほどに神は近くにおられるのだから、神に近づこう!」と言うのです。
 NHKの朝ドラの話を月報の巻頭言に書きました。ドラマでは戦時下、主人公の妻の母(キリスト者)は、礼拝堂の礼拝ができなくなり、家庭集会をしている場面がありました。そのようにして教会の交わりを保っていましたが、集会に出ている人たちの中にも妬みがあり、皮肉がぶつけられる場面もありました。それは昔のことだけではなく、今の教会でも抱えていることだと思いました。23節には「公に言い表した希望を揺るがぬようしっかり保ちましょう」とありますが、教会も、私たちの歩みにおいても、まことに揺さぶられることが起こります。25節には「ある人たちの習慣に倣って集会を怠ったりせず、むしろ励まし合いましょう」とあるのは、集会を怠る人が出てきてしまったということです。これも、今の教会も持っている課題です。
 「神に近づこう」とあります。どのようにして神の近さを知ることができるのでしょうか。何よりも礼拝の説教を通してです。生きておられる神は、説教者の口を通して恵みの言葉を語っておられるのです。私たちは福音を聞かなければ生きられない。この信仰に立っています。更に、聖餐によって、目に見える神の言葉としてキリストの体(パン)と血(ぶどう酒)をいただき、味わい、キリストの命に共に生かされます。こうして、教会は苦難を耐え抜いていきました。
 更に「かの日が近づいているのをあなたがたは知っているのです」(25節)。「かの日」とは、キリストが再びおいでになって、救いを完成させてくださる日です。「かの日」の方が、私たちに近づいているのです。私たちは時を知っているのです。