11月15日(日) 降誕前第6主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   543
主の祈り
交読詩編 詩編136:1~9
祈  祷
聖  書  ヘブライ人への手紙第11章1~3節
使徒信条
説  教  「信仰によって分かること」
賛  美   458
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨 「信仰によって分かること」

 本日から第11章に入りますが、ヘブライ人への手紙の文脈において第11章がどのような位置づけとなっているかを、まず確認したいと思います。第10章36節には「神の御心を行って約束されたものを受けるためには、忍耐が必要なのです」とあり、39節には「わたしたちは・・・信仰によって命を確保する者です」とあります。第12章1~2節には、「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか、信仰の創始者また完成者であるイエスを見つめながら」とあります。ですから、第11章は「信仰によって命を確保した」、「おびただしい証人の群れ」が紹介されている箇所なのです。
 2節「昔の人たちは、この信仰のゆえに神に認められました」。この「認められる」とは、卒業証書を授与されるイメージです。必要な課程を終えたと認められたら、学校から卒業証書をいただきます。外から、神が認めてくださる信仰です。その信仰とは、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」(1節)。「望んでいる事柄」を「見えない事実」と言い換えているのです。それは、私たちの大祭司であるキリストが天の神の右の座におられて、常に私たちを愛して、執り成していてくださること、キリストは必ず再び来てくださるという希望です。ここで用いられている「確信」と、ヘブライ人への手紙第1章3節で使われている「本質」と、ギリシア語原文では同じ言葉です。「保証」という訳もあります。もとは「何かの下にある」という意味であり、その下にあるものによって支えられている、という意味があります。頑丈な基礎があってこそ、建物は大丈夫なように、信仰の確信・本質とは、私たちが固く信じているということではなくて、神の確かさに支えられている信仰なのです。「見えない事実を確認すること」の「確認」という言葉は、「相手に納得してもらうために証拠を与えること」という意味があります。これも外からの確かさという点では同じです。キリストが生きておられることこそ、まことに確かなことです。そのことを信じさせていただく信仰も神からいただく恵みです。
 第11章は旧約聖書の信仰者が証人として登場すると申しましたが、それは4節のアベルから始まります。その直前の3節では神の言葉による創造が語られています。「信仰によって、わたしたちは、この世界が神の言葉によって創造され、従って見えるものは、目に見えているものからできたのではないことが分かるのです」(3節)。創世記第1章に、神が「光あれ」と言われたら、光があった、とあります。神の言葉による「無から有の創造」です。さらに神の創造には「混沌から秩序へ」という面もあります。神に造られた世界は、それぞれがふさわしいところに置かれ、整えられていきます。空間が造られ、歴史が始まります。
 使徒パウロはキリストによる救いは新創造である、と語りました。「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです」(コリント二5:17)。私たちは罪と死の混沌から救われました。神と和解して、人と人との間も健やかな関係が回復されます。こうして今も神の言葉による創造の働きは続けられ、教会は神の創造の業に与っているのです。そのことも見えない事実であって、信仰によって知っていることです。
 聖書を説き明かす説教が、人の言葉としてではなく神の言葉として聞かれるとき、神の言葉は私たちの中で生きて働きます(テサロニケ一2:13)。そのとき、私たちは見えないものによって支えられていることが、信仰によってよく分かるようになるのです。