11月29日(日) 降誕前第4主日・アドベント第1主日 礼拝順序
黙 祷
賛 美 242(1節。2回繰り返し)
主の祈り
交読詩編 詩編133篇
祈 祷
聖 書 コリントの信徒への手紙一第11章17~26節
使徒信条
説 教 「聖徒の交わりを信じます」
賛 美 444
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨 「聖徒の交わりを信じます」
今日は、使徒信条による説教で、「聖徒の交わりを信じる」とはどういうことかを、今回と次回と2回に分けてお話ししたいと思います。今回は「交わり」の方を中心にお話しします。
使徒信条の原文はラテン語で書かれていて、「聖徒」と訳された言葉は、「聖なるもの」と訳せます。「聖なるもの」の「もの」は、「者」でも「物」でも、どちらもありうるのです。「交わり」と訳された言葉は、ギリシア語の「コイノーニア」からきていて、「同じものを分け合う、共有する、共にする」が元の意味です。例えば、大きなケーキを分け合うようなイメージです。日本語の使徒信条の「聖徒の交わり」にあたる部分は、「聖なるものを分かち合うことによって生まれる交わり」と言うことができるのです。
「聖なるもの」を分かち合うとは、何よりもまず、キリストの体とキリストの血を分かち合う交わりです。聖餐です。コリントの信徒への手紙一第10章16~17節に、こう語られています。「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」。教会は、聖餐を祝うことによって、キリストにおいて一つであることを新たにしているのです。
ところがコリントの教会では、その主の晩餐(聖餐)を空しくするような問題が起こっていたのです。使徒パウロは「あなたがたの集まりが、良い結果よりは、むしろ悪い結果を招いている」(17節)と指摘しています。「仲間割れ」(18節)があり、「仲間争い」(19節)があったのです。「それでは、一緒に集まっても、主の晩餐を食べることにならない」(20節)と反省を促します。当時の教会は、夕食と聖餐が一続きであったようです。「食事のとき各自が勝手に自分の分を食べてしまい、空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」(21節)でした。当時、自由な身分の人は、教会の食事の集まりに時間通りに来られたようですが、奴隷の人は遅れて来ざるを得なかったようです。先に来た人は待ちきれずに食事を始めて、中にはお酒を飲んでいい気分になった人もいる一方で、食事にありつけなかった人もいました。ですからパウロは「神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」(22節)と叱責しているのです。これは決して他人事ではありません。私たちの教会に、仲間割れや仲間争いはないと言えるかどうか、教会の仲間が互いに体のことも深く心にかけて励まし合う交わりとなっているか、問われます。
使徒パウロは基本に立ち帰らせます。「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたもの」(23節)と語り、「わたしの記念としてこのように行いなさい」(24、25節)と主イエスが命じられたことを思い出させます。聖餐を祝うことによって教会は「主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(26節)。教会は、再臨の主イエス・キリストを待ち続ける群れであり、主の犠牲の死、罪を贖う死、私たちを救うための主の十字架の死を告げ知らせる群れなのです。
こうして教会は、キリストの恵みを共有し、キリストを絆とする群れとされています。使徒パウロはコリントの教会にこうも語っています。「あなたがたについてわたしたちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなたがたが苦しみを共にしてくれているように、慰めをも共にしていると、わたしたちは知っているからです」(コリント二1:7)。キリストが私たちの苦しみを共にする仲間となってくださったからこそ、教会は、苦しみを共にして、神の慰めを共にする群れとされているのです。