12月13日(日) 降誕前第2主日・アドベント第3主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   242(1~3節)
主の祈り
交読詩編 詩編126篇
祈  祷
聖  書  ヘブライ人への手紙第11章20~40節
使徒信条
説  教  「弱かったのに強い者とされ」
賛  美   236
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨 「弱かったのに強い者とされ」

 ヘブライ人への手紙第11章では、忍耐して生きた旧約聖書の信仰の証人が紹介されています。本日の聖書箇所からは、モーセを中心に見ていきたいと思います。
 まずイサクです。「信仰によって、イサクは、将来のことについても、ヤコブとエサウのために祝福を祈りました」(20節)。前回、「イサクを献げよ」との神の命令に従順に従ったアブラハムの信仰に触れました。私たちはアブラハムの信仰に注目しますが、子であるイサクからすれば、屠られる(殺される)直前で救われたわけで、そうして父も子も、神の大いなる御業を体験したはずです。イサクには父アブラハムから祝福を受け継いだという自覚がありました。その神の祝福を、子であるヤコブとエサウに受け継がせるべく祈りました。
 続いてヤコブです。地上の生涯の最期にあたって、ヤコブは、我が子ヨセフの子供たちのために祝福を祈り、神を礼拝しました(21節)。私たちも、年老いて自分で立てなくなったときでも、祝福を祈り、神を礼拝する信仰に生きることができます。
 そしてヨセフです。神の導きによって、エジプトで総理大臣になったヨセフは、父ヤコブの家族をエジプトに呼び寄せて、養いました。ヨセフは、ヤコブの子孫がエジプトから脱出する時が必ず来ると確信していましたから、臨終のとき、遺骨を約束の地に葬るように指示をしました(22節)。地上の生涯を終えるときも、神の約束を信じていました。
 さらにモーセが登場します。旧約聖書では最も重要な人物の一人で、イスラエルの人々をエジプトから脱出させた指導者です。モーセの両親は「ヘブライ人の男子が生まれたら殺せ」とのエジプトの王の命令を恐れずに、赤ちゃんを隠しました。出エジプト記第2章には、赤ちゃんのモーセを籠に入れナイル川に置いていたところ、ファラオの王女が見つけてモーセを養子にした出来事が描かれています。こうしてモーセはファラオの王宮の一員となりましたが、モーセ自身は神の民イスラエルの一員としての自覚を持っていました。成人したモーセは「ファラオの王女の子と呼ばれることを拒んで、はかない罪の楽しみにふけるよりは、神の民と共に虐待される方を選び、キリストのゆえに受けるあざけりをエジプトの財宝よりまさる富と考えました」(24~26節)。この手紙の言葉を読んだ人たちは自ら問われたことでしょう。「教会の仲間たちと共に苦しむのか」、「キリストのゆえに受けるあざけりを、世の富にまさる富と考えるのか」、と。モーセは「与えられる報いに目を向けて」(26節)、「目に見えない方を見ているようにして、耐え忍んで」いました(27節)。神はエジプトに次々と災いを降し、ついに長子を滅ぼす(28節)という最後の災いによって、神の民をエジプトから脱出させられました。そのとき、イスラエルの人々にこの災いが降らないように、モーセは神の言葉に従って、過越の食事をして、小羊の血を柱と鴨居に塗りました。
 エジプトの王は、イスラエルの人々を追い出したのですが、民が本当に出て行ってしまうと心変わりをして、追いかけてきました。イスラエルの人々の前は海、後ろにはエジプト軍が迫って来たとき、神は海の中に道を開いてくださり、イスラエルの人々はそこを歩いて渡り、救われました。追いかけてきたエジプト人は、海の水が戻ったので、溺れて死にました(29節)。海の中に開かれた道を人々が歩いて渡ったことを、神は信仰による行いと認めてくださいました。
 「信仰とは…見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)とあります。見えない事実とは神ご自身とも言えるでしょう。神は見えませんが、生きて働いてくださることを信じます。