12月20日(日) 降誕前第1主日・アドベント第4主日 クリスマス礼拝順序
黙 祷
賛 美 242
主の祈り
交読詩編 詩編98篇
祈 祷
聖 書 ルカによる福音書第2章10b~11節
ヘブライ人への手紙第11章39~第12章3節
使徒信条
説 教 「イエスを見つめながら」
賛 美 259
聖 餐 81
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨 「イエスを見つめながら」
「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである」(ルカ2:10b~11)。クリスマスは、神が人となられ、この世に来てくださった出来事です。さて、赤ちゃんとはだれもが近づける存在ではないでしょうか。赤ちゃんは誰をも受け入れます。一方、赤ちゃんが家族となったら、放っておくことはできませんから、自分中心ではなく赤ちゃん中心の暮らしとなります。主イエスが赤ちゃんとしておいでになられたのは、このような意味があるのかもしれません。
ヘブライ人への手紙第12章3節「あなたがたが気力を失い疲れ果ててしまわないように」に、当時の教会の課題が見えてきます。信仰生活に疲れ果て、気力を失う信徒がいたのです。決して他人事ではない。私たちも陥る可能性があります。誰にも言えない深い悩みを抱えることがあり、そればかりを見つめてしまうと、生きる気力を失い、死んだほうがましだ、と思い込んでしまうことも起こります。どうすればいいのか、問われます。
1節に「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている」とあります。第11章では、旧約聖書に出てくる信仰者を見てきました。アベル、エノク、ノア、アブラハム、サラ、イサク、ヤコブ、ヨセフ、モーセ、ラハブ、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、ダビデ、サムエル、預言者たち、イスラエルの人々。実は、教会は、今、彼らに囲まれているというのです。第11章1節で「信仰とは…見えない事実を確認すること」とありました。見える地上の教会は小さい群れであっても、おびただしい証人に見守られているのです。
1節の「競走」は短距離ではなく、マラソンのような長距離のイメージです。1等を争うのではありません。生きることが「自分に定められている競走」を走ることです。信仰はその競走を「忍耐強く走り抜く」力です。自分の力では走れません。その競走には「信仰の創始者また完成者であるイエス」(2節)が先立っていてくださいます。自分だけではなく、教会の仲間と共に走っているのです。足を止めようとする「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて」(1節)走るのです。「もう走れません」と言うならば、それは「御自分に対する罪人たちのこのような反抗」(3節)です。主イエスはその反抗を忍耐してくださり(3節)、走り抜く力を信仰によって与えてくださるのです。
第11章40節には興味深いことが書かれています。「神は、わたしたちのために、更にまさったものを計画してくださったので、わたしたちを除いては、彼らは完全な状態に達しなかったのです」。私たちがお手本にするべき旧約の信仰者の救いが、教会なしには、キリスト者なしには完全な状態にならないというのです。
そのためにもキリストは来てくださいました。「御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍び、神の玉座の右にお座りになったのです」(2節)。キリストは十字架で死ぬために、天にある喜びを離れて、世に降り、お生まれになりました。それがクリスマスです。当時、十字架刑は、辱めに満ちた極刑でした。主イエスは恥を引き受け、耐え忍んで、ご自分に反抗する罪人の救いのために命をささげてくださいました。「恥をもいとわないで」を「不名誉だと思わず」とする訳もありました。当時の人の目には恥ずべき十字架ですが、十字架において神は栄光を現わされました。それは信仰の目を持って分かることです。
「イエスを見つめる」とは、イエスから離れたところから見ることではありません。キリストに結ばれている私たち(エフェソ4:21)は、すでにキリストの中にいるのです。