12月27日(日) 降誕節第1主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   18
主の祈り
交読詩編  詩編3篇
祈  祷
聖  書   ローマの信徒への手紙第12章1~18節
使徒信条
説  教  「聖なる者とされ」
        〔使徒信条による説教〕
賛  美   521
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨 「聖なる者とされ」
 
  本日は「聖徒の交わり」の2回目です。前回、使徒信条の「聖徒」に当たる、使徒信条のラテン語原文を直訳すると「聖なるもの」であること、「もの」には「者」も「物」もあり得ること、「交わり」とは「共有すること」とお伝えしました。教会は、何よりも主イエスを共有しています。それは聖餐を祝うことによって見ることができます。教会の交わりは、主イエスの命である体(パン)と血(杯)に与ることに根ざしています。このようにして、私たちは「聖なるもの」である主イエスを共有しているから「聖なる者」とされているのです。私たちが「聖徒」であるとは、信じることです。自分で自分を聖(きよ)くするのではない。自分に根拠があるのでもない。自分の行いを見たら恥じ入るばかりです。主イエスの聖さに与っているから、私たちは聖徒なのです。
 本日はローマの信徒への手紙第12章から、聖徒とされているとはどういうことか、御言葉に聴きたいと思います。
 「こういうわけで」と1節が始まりますが、ここにはローマの信徒への手紙第1章から11章までを指しています。突き詰めて言えば、私たちは神に愛されているということです。その神の愛は、主イエスの十字架の出来事に示されています。主イエスは、私たちの罪の贖いとなってくださったから、私たちは救われました。行いによって救われるのではありません。主イエスを信じる信仰によって救われるのです。そのようにして神の愛を知り、キリストの救いに与った者は、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げ」(1節)て生きるほかありません。「神の憐れみによって」とあります。御子を惜しまず差し出してくださるほどに愛されている、憐れみを受けている私たちです。「自分の体」とは自分の存在をあげて、ということです。私たちは、心でだけ信じているのではありません。私たちの存在そのものが聖なる者とされている。私たちは、日曜の礼拝の時間だけ、神を礼拝しているのではなく、自分の存在を神に献げていくことが礼拝となるというのです。
 2節には「あなたがたはこの世に倣ってはなりません」とあります。今、祈祷会で出エジプト記を学んでいますが、神がエジプトに十の災いを降し、海の中に道を開いて、神の民を完全に救い出してくださった箇所まできました。神は、エジプトでファラオに仕えている民を、神に仕える民として回復させるため、エジプトの奴隷状態から解放してくださいました。エジプトやファラオとは私たちにとって「この世」を象徴しています。この世の力(お金や人間関係や能力など)が私たちを捕らえ、私たちは罪と死の奴隷となっていました。神は、私たちをそこから解放して、神を神として礼拝する本来の姿に回復させるために、救い主キリストを遣わしてくださいました。自分を省みると、自分が救ってほしい事柄にこだわっていたように思います。神を礼拝する神の民とすることが神の目的であることになかなか気づきませんでした。
 「自分を過大に評価してはなりません」(3節)との戒めがあります。「自分を誇る」という誘惑が絶えず付きまといます。そこからの解放は、一人ひとりが互いにキリストの体である教会の部分とされている、と自覚することから始まります(5節)。教会はキリストの体である、一人ひとりがかけがえのない部分であるとは、信じるべきことです。一人ひとりが「与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから」(6節)、人と比べる必要はなくなります。神の恵みの賜物によるのですから。過大評価や過小評価から解放され、その恵みを喜んで、置かれたところで、与えられた賜物を生かして、仕えていけばよいのです。