1月10日(日) 降誕節第3主日 礼拝順序
黙 祷
賛 美 204
主の祈り
交読詩編 詩編76篇
祈 祷
聖 書 ヘブライ人への手紙第12章14~24節
使徒信条
説 教 「聖(きよ)められて生きる」
賛 美 515
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨 「聖(きよ)められて生きる」
14節「すべての人との平和を、また聖なる生活を追い求めなさい」。「平和」という言葉は、11節に出ています。「およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです」(11節)。前回の説教で、ヘブライ人への手紙の著者はこの悲しみを知っている、と話しました。聖書の「義」とは、神との関係が正しいことです。キリストによって神と和解させていただき、神との平和な関係に生かされます。その人には平安が与えられて、隣人との間も平和に生きるようにと招かれます。私たち一人ひとりが神との関係に平和がなければ、隣人と平和に生きることはできません。
今、私は父との二人暮らしですが、親子ですら、そのままでは平和を維持するのは困難です。夫婦、きょうだいでも同じです。私は、父を自分に合わせるよう長い間求めていました。そうではなく私が変えられて、父に仕えることによって、平和に生きることができます。相手を受け入れることです。そのことは、自分が主イエスの愛を受けることなしにはできません。
「聖なる生活」は、直訳すると「聖」。「聖別された生活」、「清い関係」ということもできます。このことも、自分と神との関わりを抜きにしては実現しません。「平和」、「愛」、「聖」は、みなつながっていて、それらは聖霊がくださる賜物です。
続く15節には3つの警告があります。「恵みから除かれることのないように」、「苦い根が現れてあなたがたを悩ますことがないように」、「それによって多くの人が汚れることのないように」気をつけなさい。悩む人がいました。信仰を捨て、教会から離れる人がいました。神の恵みは信仰生活を支えるものですから、神が自ら進んで私たちを恵みから除くことはありません。私たちが恵みを軽んじるとき、恵みから除かれるという結果を招くのです。「苦い根」のような一人の不信仰が多くの人に影響を与えます。それは私たちの教会でも経験しています。神の恵みは、人の応答を求めます。私たちが救われたのは、自分のやりたいように生きるためではなくて、神に仕えて生きるためです。
16・17節では、恵みを軽んじた人として、エサウの出来事が警告として語られています。長子の権利を軽んじて放棄したエサウは、目の前の利益に目を奪われ、神の祝福を軽んじました(創世記第25章)。後になってそれを受け継ぎたいと願いましたが、事態は変えられませんでした(創世記第27章)。ここで聞くべきことは、神のみが祝福を決定なさるということです。神の祝福は人間の手にはないのです。私たちが神の祝福におらせていただいていることは、全く一方的な恵みであるわけです。
18節以下では、古い契約と新しい契約を対比しています。「近づく」という言葉は、ヘブライ人への手紙のキーワードの一つで、「神を礼拝する」という意味です(第10章22節参照)。
23節には、「天に登録されている長子たちの集会」とあります。神はキリスト者を、御子キリストと同じ立場にいる者と見てくださるのです。私たちは長子として神の祝福の相続権を得ています。長子しかいない、長子たちの集会が教会なのです。
私たちをそのような祝福へと入れてくださったのは、24節「新しい契約の仲介者イエス」がおられ、「アベルの血よりも立派に語る注がれた血」があるからです。主イエスの十字架の出来事は、カインの犠牲となったアベル(創世記第4章)よりも、はるかに偉大な犠牲であり、私たちと神との関係に和解をもたらしてくださった、私たちの罪の贖いでした。私たちは、復活し、天におられる大祭司イエスに近づくことが許されているのです。