1月24日(日) 降誕節第5主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   208
主の祈り
交読詩編  詩編118:1~9
祈  祷
聖  書   ヘブライ人への手紙第13章1~6節
使徒信条
説  教  「主はわたしの助け手」
賛  美   536
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 1節「兄弟としていつも愛し合いなさい」。直訳すると「兄弟愛にとどまれ」。教会で実践される愛です。思い起こされる御言葉があります。第2章11節「イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としない」。もう一つ、第2章17節「イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかった」。神の御子が私たちと同じ存在、人となられ、私たちの兄弟となってくださいました。それは、私たちの罪の贖いとなるためでした。私たちをどこまでも受け入れて、兄弟と呼ぶことを恥としないと言ってくださるのです。私たちの人間関係を振り返れば、親を恥ずかしいと思うし、子を恥ずかしいと思う。自分で自分を恥ずかしく思いながら誰にも言えないことがある。私たちは罪深く、破れ多く、お互いを傷つけずにはおれないからです。御子は、そのような私たちと、罪以外、同じ存在となってくださったのです。
 兄弟として愛し合うことについては、「とどまる」(ギリシア語「メノー」)と、同じ言葉が用いられている、ヨハネによる福音書第15章1節以下の主イエスの言葉に耳を傾けたいと思います。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ」(ヨハネ15:5)。この「つながっている」が「メノー」です。「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば・・・」(ヨハネ15:7)とあるように、主イエスにつながるとは、主の言葉を私たちの内に蓄えることです。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(9節)。この「とどまる」も「メノー」です。父なる神が御子を愛したように、御子は弟子たちを、私たちを愛してくださいました。ですから、「わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい」(ヨハネ15:12)。その愛はどこに見えたのか。「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。・・・わたしはあなたがたを友と呼ぶ」(ヨハネ15:13、15)。私たちは主イエスに「兄弟」と呼ばれるばかりでなく「友」と呼ばれています。主が命を捨ててくださるほどに、主に愛されています。その愛を知った者がその愛に応え、主に愛されている兄弟姉妹を愛するのです。
 この兄弟愛は、狭い意味では地域教会でまず実践され、さらに地域教会を超えての兄弟愛の実践「旅人をもてなすことを忘れてはいけません」(2節)へ、そして信仰による迫害を受けている人たちのことを思いやるように、と広がります(3節)。「自分も一緒に捕らわれているつもりで・・・自分も体を持って生きているのですから」(3節)とは、私たちが生身の人間であり、キリストも生身の人間となられたことを思わされます。
 4節「結婚はすべての人に尊ばれるべきであり、夫婦の関係は汚してはなりません。神は、みだらな者や姦淫する者を裁かれるのです」。夫あるいは妻は最も近い兄弟姉妹であり、隣人です。当事者ばかりでなくすべての人が結婚関係を大切にして生きるのです。それが聖なる者とされた者にふさわしい生き方です。
 さらに5節「金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい」。金銭に執着するとは、富が主人となっていて、自分は富の奴隷になっているということです。そうなるのは、神の守りを信じていないからです。ですから、神の力強い約束が語られます。「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」(5節)。そのことを信じた私たちは、大胆に言えるのです。「主はわたしの助け手。わたしは恐れない。人はわたしに何ができるだろう」(6節)、と。