1月31日(日) 降誕節第6主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   470
主の祈り
交読詩編  詩編32篇
祈  祷
聖  書   コリントの信徒への手紙二第5章13~21節
使徒信条
説  教  「罪の赦しを信じます」
        〔使徒信条による説教〕
賛  美   444
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)

説教要旨

 使徒信条によって教会の信仰である「罪の赦しを信じます」と信仰告白をしています。それはどういうことか、コリントの信徒への手紙二の御言葉から改めて受け取りたいと思います。
 「・・・神は、キリストを通してわたしたちを御自分と和解させ・・・神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく」(18~19節)とありますように、罪の赦しとは、キリストによって私たちは神と和解させていただいたということです。ですから、神は私たちの罪の責任を問うことはなさらないのです。罪の赦しとは、神との和解です。
 和解を平たく言えば仲直りです。しかし、仲直りをすることはなかなか難しく、簡単にできるものではないことを私たちは経験しています。それは自分が正しいと思い、相手が変わってから自分も変わろうと考え、自分から動こうとしないからです。和解のためには「自分が間違っていました。自分がこだわっていました」と、相手との関係を変えることから始まります。しかしまた、自分が変わっても相手はまだかたくなである、ということも体験しています。双方が変えられて、初めて和解が実現する。
 私たち人間は、まことの神の前で罪ある者、神に背く者であり、神と和解しなければ本来の自分に生きることはできません。そのことも「和解の言葉をわたしたち〔教会〕にゆだねられた」(19節)とある通り、まさにこのような礼拝に集うことによって、教会が和解の言葉を語り、それを聞くことによって、私たちは自分が神の前に罪ある者であったことが分かるのです。
 聖書でいう和解がどのようなものか、旧約聖書を通して理解できます。神が神の民と和解してくださるためには、すなわち罪を赦していただくためには、動物の犠牲が必要でした。レビ記第16章にその贖罪の儀式が詳細に書かれています。祭司は民から2匹の雄山羊を受け取ります。1匹は聖所で屠られて、祭司がその血によって聖所を清めます。もう一匹の「生きている雄山羊の頭に〔祭司は〕両手を置いて、イスラエルの人々のすべての罪責と背きと罪とを告白し、これらすべてを雄山羊の頭に移し、人に引かせて荒れ野の奥へ追いやる。雄山羊は彼らのすべての罪責を背負って無人の地に行く。雄山羊は荒れ野に追いやられる」(レビ16:21~22)。こうして見える形で、聖所は清められ、民の罪が贖われ、神の民は神と和解して生きることができるのです。主日礼拝で読んでいるヘブライ人への手紙から知ったことは、旧約の祭儀では、動物の犠牲を繰り返し献げなければなりませんでしたが、キリストはただ一度、ご自身を完全な犠牲として捧げて、私たちの罪の贖いとなってくださったということです。「罪と何のかかわりもない方を、神はわたしたちのために罪となさいました」(21節前半)とは、この旧約の動物の犠牲の理解が背景にあります。私たち人間の罪をすべて、罪と何のかかわりもない方、すなわち神の独り子主イエス・キリストが負ってくださったので、私たちの罪は取り除かれました。「わたしたちはその方によって神の義を得ることができたのです」(21節後半)。私たちは、キリストを信じることで神に義と認められ、救われ、神の子とされ、キリストと同じ立場を得させていただいたのです。
 「だから、キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者なのです。古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(17節)とあるとおり、罪の赦しを信じるとは、自分自身の存在そのものがキリストによって新しくされたと信じることです。私たちは人生の目的を与えられています。私たちは「もはや自分自身のために生きるのではなく、自分たちのために死んで復活してくださった方のために生きる」(15節)のです。