2月 7日(日) 降誕節第7主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   508
主の祈り
交読詩編  詩編100篇
祈  祷
聖  書   ヘブライ人への手紙第13章7~16節
使徒信条
説  教  「恵みによって心を強く」
賛  美   430
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨

  「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい」(7節)。ヘブライ人への手紙は説教であったと考えられています。迫害の時代にある初代教会でしたから「神の言葉を語った指導者たち」には、殉教者もいたかもしれません。
 私にとって「神の言葉を語った指導者」のお一人は、村瀬俊夫先生です。村瀬先生は、私が西川口教会の主任になった年から4年連続で西川口教会アシュラムの指導者としてご奉仕してくださいました。それ以来、村瀬先生が個人で発行していた月刊紙「西東京だより」を通して信仰の養いをいただきました。村瀬先生にとって「神の言葉を語った指導者」の一人は、矢内原忠雄先生でした。矢内原先生は、太平洋戦争中、国の在り方を批判したため東大教授の職を追われました。戦後は東大に復帰して総長までなさいました。村瀬先生が、神の正義をこの世で実現するお働きに誠実に取り組んでおられたことは「西東京だより」を読んで知っておりましたが、矢内原先生の信仰の感化を受けたことは今回初めて知りました。村瀬先生は昨年天に召されました。少しでもその信仰に倣いたいと思っています。
 神の言葉を語った指導者たちは「イエスはキリストである」という一事を指し示していた、と言えるのです。そのイエス・キリストは「きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(8節)。永遠に変わらないキリストに、私たちの救いの確かさがあるのです。ここにつながっていればよいのですが、「いろいろ異なった教えに迷わされ」(9節)る人、「食物の規定に従って生活」(9節)しようとする人が教会にいたと思われます。それは、自分で自分を救おうとすることであり、キリストの恵みから離れることです。そうではなく、キリストの「恵みによって心が強められる」(9節)ようにと語られています。そこで、改めて10節以下で、旧約の祭儀を通して、キリストの十字架の出来事の意味が明らかにされます。「罪を贖うための動物の血は、大祭司によって聖所に運び入れられますが、その体は宿営の外で焼かれ」(11節)ます。これはレビ記第16章27節に基づいています。「それで、イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです」(12節)。当時の町は城壁に囲まれており、町を出入りする門がありました。罪人とされた主イエスの十字架刑は、門の外での出来事でした。イエスは苦難に遭われ、血を流されましたが、それはすべての民をご自分の血で贖い、聖なる者とするためでした。10節前半「わたしたちには一つの祭壇があります」とは、主イエスの十字架であり、主の食卓でもあり、天の聖所の祭壇でもあります。キリスト者は、主の晩餐で、主の十字架と復活の救いを示す主イエスの体(パン)と血(ぶどう酒)に与り、主の赦しを受け、主の命に生かされる恵みをいただきます。その恵みを私たちに与えるために、主イエスは辱めを受けられたのです(13節)。ですから私たちは「イエスが受けられた辱めを担い、宿営の外に出て、そのみもとに赴こう」(13節)と招かれています。イエスのもとに行くとは、主が避けどころであるということ。これは日々の信仰生活においては、主日礼拝であり、日毎の祈り(ディボーション)です。私たちは、主イエスとの交わりにおいて、神の言葉を聞き、生かされるのです。
 「私たちは・・・来るべき都を探し求めているのです」(14節)。私たちは何一つ持たず神の裁きの前に立つことをわきまえ、主イエスが再び来られる日を待ち望んでいます(ヘブライ9:27~28参照)。「イエスを通して」「絶えず」「賛美」(15節)すること、「善い行いと施し」(16節)、すなわち分かち合って生きることこそ、神に喜ばれ、私たちがささげるべきいけにえなのです。