2月14日(日) 降誕節第8主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   351
主の祈り
交読詩編  詩編15篇
祈  祷
聖  書   ヘブライ人への手紙第13章17~19節
使徒信条
説  教  「魂への配慮を」
賛  美   390
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨

  今日与えられた箇所は、内容的に難しいことはありません。指導者たちと教会員との関係について語られています。しかし事柄としては難しいことです。「指導者たちの言うことを聞き入れ、服従しなさい」(17節)。これがなかなか難しいことを私たちも経験しています。私たちの場合、指導者たちとは、牧師や役員でしょう。本日はまさにこの後、教会総会で役員を選びますが、本日この聖書箇所になるとは、神様のなさることは不思議です。教会員の立場からすれば、導く人はしっかりとしてもらわなければ困る、という思いがあるでしょう。指導者たちからすれば、教会員に言うことをしっかりと聞き入れてもらいたい、受け入れて服従してもらいたい、ということです。
 では指導者たちは何を言うのか。それは7節に「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい」とある通りです。神の言葉を語るのです。自分の人間的な考えや願いを語るのではありません。
 そして、神の言葉を語る指導者たちは、何をするのか。17節の続きです。「この人たちは、神に申し述べる者として、あなたがたの魂のために心を配っています」。この「心を配っている」を直訳すると「眠らないでいる」。徹夜で祈る。指導者たちは教会員のために、神に申し述べるために、目を覚ましている。指導者たちは、自分のことも申し述べますが(ヘブライ4:13)、教会員の兄姉のために神に申し述べる。それは、大祭司キリストの執り成しにあやかっている姿と言えるでしょう。そのとき教会員は、「彼ら〔指導者たち〕を嘆かせず、喜んでそうするように」させることを求められています。指導者たちが嘆きつつ祈るのか、喜びつつ祈るのか、ということです。こういう言葉を聞くと、聖書は観念などが書かれているのではなく、実際の教会の生々しい現実のただ中で書かれたのだと感じます。
 昨年、西川口教会の70周年記念の年、歴代教職の先生方に連絡をとりました。先生方が、西川口教会のために常に祈り続けてくださっていることを改めて知らされ、感謝しました。先生方が西川口教会のために祈るとき、嘆きつつ祈るのか、喜びつつ祈るのか、ということです。私たちの歩みが問われているのです。
 あるいは、信仰者の家庭においては、親が指導者であるといえます。教会の兄姉は、子どもが信仰へ導かれることを祈っています。親は子のために嘆きつつ、喜びつつ、神に申し述べる者であり、それは指導者たちの心に通じるものです。
 使徒パウロも、教会員に、母親のように、父親のように関わったと語っています。「ちょうど母親がその子供を大事に育てるように、わたしたちはあなたがたをいとおしく思っていた・・・」(テサロニケ一2:7~8)。「わたしたちは、父親がその子供に対するように、あなたがた一人一人に呼びかけて・・・」(同2:11~12)。
 指導者たちが教会員の魂のために、神の言葉を語り、心を配り、執り成し祈ることは、人間の力ではできません。ですから、「わたしたちのために祈ってください」(18節)と訴えているのです。「わたしたちは、明らかな良心を持っていると確信しており、すべてのことにおいて、立派にふるまいたいと思っています」(18節)。これは「聖なる良心で、聖なる行いに生きることを志す」ということです。やましい良心で伝道はできません。聖霊によらなければ神の言葉を語ることも聞くこともできませんし、神に心を開くことはできません。ですから、そこに祈りが必要で、祈ってほしいと訴えているのです。私たちがここに共にいるのは、神が選んでくださったからです。神の選びに応えて、キリストの恵みに根差し、祈っていく信仰も神が与えてくださっています。