2月21日(日) 復活前第6主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   18
主の祈り
交読詩編  詩編98篇
祈  祷
聖  書   ヘブライ人への手紙第13章20~25節
使徒信条
説  教  「御心を行うために」
賛  美   463
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 25
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨

 ヘブライ人への手紙の説教を2020年4月26日から始めました。この日は緊急事態宣言が出たため、礼拝堂の礼拝を休んでいたときでした。今日で34回目、最後となります。本日の聖書箇所には祝福と挨拶があります。先に22節以下を読みます。
 22節の「勧めの言葉」とは「慰めの言葉」と訳せます。今日では「説教」です。ここで「手短に書いた」に苦笑します。「この手紙が手短?」。しかし、約30分の礼拝説教を34回してきましたし、この手紙を音読すると約1時間だそうですから、著者は語りたいことに集中して「手短に」書いたのでしょう。「勧めの言葉を受け入れてください」とは、既に読みましたとおり、指導者たちは神の言葉を語り(ヘブライ13:7)、教会員はその言葉を聞き入れ服従するよう勧告(ヘブライ13:17)がありました。ここでも著者は同じ思いで語っているのです。
 23節に「兄弟テモテが釈放された」とあります。テモテは新約聖書の他の箇所から、使徒パウロの若き同労者で、エフェソの教会の牧師であった人と考えられます。信仰のゆえに捕らえられていたのでしょう。
 24節前半に「すべての指導者たち、またすべての聖なる者たちによろしく」と挨拶があります。指導者たちについては先に述べたとおりです。「聖なる者たち」とは、同じ第13章12節に「イエスもまた、御自分の血で民を聖なる者とするために、門の外で苦難に遭われたのです」とあるとおり、私たちは、人間の業で聖なる者となるのではなく、ただ、主イエスの十字架で流された血潮によって聖なる者とされるのです。教会は、神の言葉を語る「指導者たち」と「聖なる者たち」から形作られていまます。
 24節後半の「イタリア出身の人たちが、あなたがたによろしくと言っています」は、今はもうはっきりしたことは分からず、当時の教会にはこれだけで伝わったのでしょう。
 25節の「恵みがあなたがた一同と共にあるように」は、神の恵み、キリストの恵みに教会を委ねる究極の祈りです。
 20~21節の祝福に戻ります。この手紙の特徴の一つは「復活」という言葉が出てこないことです。20節には「主イエスを死者の中から引き上げられた」とあり、主の復活の出来事が示されている数少ない箇所の一つです。この祝福の言葉と響き合うのが、冒頭の第1章3節です。「御子は・・・人々の罪を清められた後、天の高い所におられる大いなる方の右の座にお着きになりました」。ヘブライ人への手紙が集中して語ったのは、御子キリストが永遠の大祭司であられることです。キリストは神の右の座で永遠に大祭司として私たちのために執り成しておられるのです。「永遠の契約の血による羊の大牧者」(20節)とはどういうことでしょうか。この手紙は、大祭司であるキリストがご自身を犠牲として献げられたこと、その犠牲はただ一度で完全なものであることも集中して語っています。第9章14節には「永遠の“霊”によって、御自身をきずのないものとして神に献げられたキリストの血は、わたしたちの良心を死んだ業から清めて、生ける神を礼拝するようにさせないでしょうか」とあります。キリストの血によって、私たちは生ける神を礼拝する者とされたのです。私たちはその主イエスの羊であり、大牧者である主イエスによって導かれます。それは「平和の神」(20節)によることです。この神が「御心に適うことをイエス・キリストによってわたしたちにしてくださり、御心を行うために、すべての良いものをあなたがたに備えて」(21節)くださらないはずがありません。こうして教会は神の祝福の中に置かれ、祝福によって送り出されます。「栄光が世々限りなくキリストにありますように、アーメン」(21節)。