2月28日(日) 復活前第5主日 礼拝順序
黙 祷
賛 美 69の1・3節
主の祈り
交読詩編 詩編20篇
祈 祷
聖 書 コリントの信徒への手紙一第15章12~22節
使徒信条
説 教 「身体(からだ)のよみがえり」
〔使徒信条による説教〕
賛 美 475
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 26
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
使徒信条は三位一体(父・子・聖霊)の神への信仰を告白しており、それゆえに3部構成となっています。第1部が「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず」、第2部が「我は・・・イエス・キリストを信ず。主は・・・かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん」、第3部が「我は聖霊を信ず・・・永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず」です。
改めて確認したいのは、私たちは、使徒信条で告白している「三位一体の生ける神」を信じているのであって、「キリスト教」を信じているのではないことです。使徒信条は「教会の信仰」の告白であり、使徒信条に「アーメン」(本当にそうです)と言えるなら、洗礼を受けることができます。既に洗礼を受けた者たちは、いつもこの教会の信仰の告白に「アーメン」と言うのです。使徒パウロが「最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたもの」(コリント一15:3)と語っているように、教会は、福音(信仰の言葉)を語り伝え、信仰の言葉を受けた人が、さらに語り伝えていくという営みを続けてきました。
前述のとおり、使徒信条の第3部は、まず聖霊の神への信仰を告白します。その後に続く「聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦し、身体のよみがへり、永遠の生命を信ず」は、聖霊の賜物です。その中で「身体のよみがえり」だけは、まだ実現していない希望の約束です。それがどのような希望なのか、コリントの信徒への手紙一第15章から受け取りたいと思います。
この手紙を書いた使徒パウロは、コリントの教会に「死者の復活などない」と言う人がいたことに驚き、それが何を意味するのかを説きました。「死者の復活がないなら、キリストも復活しなかったはずだし、そうだとするなら、宣教も信仰も空しく、私たちは大ウソつき。あなたがたは今もなお罪の中にあることになり、私たちは最も惨めな者だ」(12~19節)と。同様に、「死者が復活しないとしたら、『食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか』ということになります」(コリント一15:32)。まさに現代の日本でもこのような人は少なくないでしょう。「死者の復活」を信じなければ、人は、望みを持ってしっかり生きることができないのです。
そこで、パウロははっきり語ります。「キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(20節)。パウロがこのように語れるのは、復活のキリストが出会ってくださったからです(コリント一15:8参照)。「初穂」とは、神に最初にお献げする収穫物のことです。キリストが初穂となられたとは、キリストに続いて、キリスト者も復活させられることを意味しています。その復活は体を伴うものです。神が人を創造されたとき、神は土の塵で人の体を造り、命の息を入れられました(創世記2:7参照)。聖書では、人は体なしに存在しないのです。体ごと存在が尊いのです。ですから復活も体ごとの復活です。
そこでパウロは「死者はどんなふうに復活するのか、どんな体で来るのか」(コリント一15:35)という問いを教会員が出すことを想定して、答えていきます。「天に属する者たち〔キリスト者〕はすべて、天に属するその人〔キリスト〕に等しい」(コリント一15:48)、「わたしたちは・・・天に属するその人の似姿にもなる」(同15:49)のです。復活の時、私たちはキリストに等しく、キリストの似姿になるのです。まことに光栄な、大きな望みです。
キリストが再びおいでになってすべてを支配されるとき、「最後の敵として、死が滅ぼされます」(コリント一15:26)。そのとき、すべての人がキリストによって生かされることになります(22節)。だから私たちは体ごと大切にして、今を生きていきます。