3月 7日(日) 復活前第4主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   153
主の祈り
交読詩編  詩編145:1~9
祈  祷
聖  書   ルカによる福音書第19章1~10節
使徒信条
説  教  「憧れと福音」
賛  美   443
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 27
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨

 今日の聖書箇所は、主イエスがエルサレムに向かわれる旅の途中のエリコの町の出来事です。ザアカイが紹介されます。彼は「徴税人の頭で、金持ちであった」(2節)。「徴税人」とは、ローマ政府あるいは領主から、税金の取り立てを委託された役職です。異邦人である外国の支配者のために働くばかりでなく、割り当てられた税額以上の金を取り立てて私腹をこやすという理由で、ユダヤ人から憎まれました。そんなザアカイにも主イエスの評判は届いていたようです。イエスの弟子には徴税人がいると、ザアカイの耳に入っていたのではないかと推測します。人々から憎まれている徴税人を弟子にしたイエスとはどんな人なのか、と思ったのかもしれません。エリコに来られたイエスは人々に囲まれてしまったようです。ザアカイは背が低かったので、群衆に遮られてイエスを見ることができませんでした。しかしザアカイはあきらめませんでした。先回りして、いちじく桑の木に登ったのです(4節)。大の大人が木に登るとは、驚きです。それほどまでに主イエスを見たかったザアカイの思いが伝わってきます。
 「イエスはその場所に来ると、上を見上げて言われた。『ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日は、ぜひあなたの家に泊まりたい』」(5節)。どこでもよい場所ではなく「その場所」であり、いつでもよいときではなく「今日」であり、「ぜひあなたの家に泊まりたい」は、新しい聖書協会共同訳では「あなたの家に泊まることにしている」、易しい英訳聖書では「I must stay at your house today.」、神の必然(must)であったのです。「ザアカイは急いで降りて来て、喜んでイエスを迎え」(6節)ました。ザアカイは、イエスを一目見るだけでいい、と思っていたのでしょう。けれども、主イエスはそれで済ますことはなさらなかった。ザアカイの客になるとお決めになっていたのです。それがザアカイにとって本心であったのは、彼が主イエスを喜んで迎えたことから明らかです。「喜びは、それにさきだって愛と憧れが存在していたというしるしなのです」(ルター)。自分さえ知らなった心の奥底にある本心をイエスはご存知で、喜びをもたらしてくださったのです。
 このザアカイの喜びを、共有することができなかった人々がいました。「あの人は罪深い男のところに行って宿をとった」とつぶやいたのです(7節)。この言葉に、ザアカイは「そうだ、そうだ。私は罪人だ」と言ったことでしょう。ですから主イエスに悔い改めて「これから償いをいたします。財産の半分を貧しい人々に施し、だまし取っていたら、四倍にして返します」(8節より)と言いました。主イエスは「償いをせよ」などとおっしゃっていません。イエスと出会い、イエスに受け入れられたザアカイが、イエスの前で、今まで自分のしてきたことが何であったのか気づいたのです。そのままでいることはできなくなったのです。
 村瀬俊夫先生との対話を思い出します。西川口教会アシュラムでご指導いただいたとき、村瀬先生は「福音は、心だけでなく、体で聴く。福音が本当に入ったら、体が動き出す」とおっしゃいました。福音の喜びは心だけにとどまらない。体も動く。ザアカイは主イエスに語ったとおり、きっと償いをしたでしょう。そうすると、地域の人々との関係が健やかに変えられて、「ザアカイさん、変わったね」という証となったことでしょう。
 主イエスはザアカイの言葉を喜ばれ、「今日、救いがこの家を訪れた」(9節)と言われました。救いは、ザアカイ個人にとどまらず、「この家」が祝福された家となりました。「人の子〔主イエス〕は、失われたものを捜して救うために来た」(10節)。捜していたのは自分だと思っていたのに、主イエスがこの私を捜し、見つけ、捕えてくださいました。うれしい驚き、神の逆転です。