3月14日(日) 復活前第3主日 礼拝順序

黙  祷
賛  美   206
主の祈り
交読詩編  詩編104:13~24
祈  祷
聖  書   ルカによる福音書第22章14~30節
使徒信条
説  教  「新しい契約」
賛  美   312
感謝祈祷
頌  栄(讃美歌) 28
祝 祷 (コリント二13:13)


説教要旨

 今日の聖書箇所は、主イエスが十字架におかかりになる前日の木曜日の夜の出来事です。過越の食事の日でした。15節には「『あなたがたと共に』この過越の食事をしたいと、わたしは『切に願っていた』」とあります。この食事は、だれでもよかったのではなく、主イエスが召し、主の招きに応えた弟子たち(14節「使徒たち」)と共なる食事であり、イエスが切望しておられたのでした。
 最初の過越の食事は、エジプトから約束の地へ旅をする前に食べるものでした。酵母を入れないパンを焼き、腰に帯をして、靴を履いて食べるのです。主イエスは「神の国で過越が成し遂げられるまで」(16節)、「神の国が来るまで」(17節)と語り、この過越の食事を、神の国の到来と結びつけられました。神の国とは神の御支配です。主イエスが再び来られ、天地に神の支配が満ちるまで、教会はこの新しい過越の食事(聖餐)を祝い続けます。
 イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」(19節)と言われました。こうして弟子たちは主イエスの体であるパンをいただき、イエスの命に生かされ、お互いがイエスの命で結ばれます。杯も同じようにされ、「この杯は、あなたがたのために流される、わたしの血による新しい契約である」(20節)と語られました。この「新しい契約」はエレミヤが預言していました(エレミヤ書第31章31~34節を参照)。新しい契約では、神が、人の心に神の言葉を刻み付け、神は人の悪を赦し、人の罪に心を留めることはなさらないのです。人が悔い改めるより前に、神が一方的に罪の赦しを宣言してくださいました。主イエスが「新しい契約である」と語られたからには、このエレミヤの預言が今、成就したのだ、という思いがあったのではないでしょうか。「わたしの血による」とは、イエスが十字架で流される血がこの新しい契約を確かなものにするということです。かつて、神がイスラエルをエジプトの奴隷状態から解放し、自由を与えられたように、主イエスは、私たちを罪と死の束縛から解放し、自由を与える新しい契約を立ててくださいました。
 主イエスが共に過越の食事をした弟子たちはどのような人たちだったのでしょうか。主の晩餐が制定された直後、その弟子たちの中に自分を裏切る者がいる、とイエスは言われました(21節)。「人の子は、定められたとおり去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ」(22節)。弟子たちの裏切りの罪も、神がお決めになった救いのために用いられますが、神は人の罪を見過ごすことはなさらず、罪の責任を問われるのです。さらに弟子たち(使徒たち)の間で、自分たちのうちでだれがいちばん偉いか、という議論も起こったとあります(24節)。これから十字架に命をささげようとする主イエスの心をまったく悟っていません。このような無理解な人たちが弟子とされているのですから、私たちも主に招かれ、弟子となれるという希望があります。弟子たちは素晴らしい行いによって主イエスの弟子となったのではなく、ただ主イエスに呼ばれて弟子となったのです。
 主イエスは、新しい契約に生かされる弟子たちに行くべき道を示されます。「あなたがたの中でいちばん偉い人は、いちばん若い者のようになり、上に立つ人は、仕える者のようになりなさい」(26節)。主イエスは自らを「給仕する者である」(27節)と言われましたが、弟子たちはその意味を悟ることができませんでした。シモン・ペトロに語られた主イエスのお言葉(ルカ22:32)のとおり、ただ主イエスが執り成してくださるので、私たちは信仰を与えられ、立ち直り、兄弟姉妹を力づける者とされるのです。