3月21日(日) 復活前第2主日 礼拝順序
黙 祷
賛 美 564
主の祈り
交読詩編 詩編110篇
祈 祷
聖 書 ルカによる福音書第22章66~第23章5節
使徒信条
説 教 「この世で真理に生きる」
賛 美 502
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 29
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
今日の聖書箇所は主イエスが裁かれる出来事です。その中で主イエスは多くを語らず、核心を突くお言葉を語っておられます。
最高法院の尋問に応えて、イエスは「今から後、人の子は全能の神の右に座る」(69節)と言われました。教会は、使徒信条で信仰告白をしているとおり「(キリストは)全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり」と信じており、そこからキリストが再び来られることを信じています。
西川口教会を会場にして、がん哲学カフェの活動を続けています。カフェに来られる人の中には、30代や40代で、がんのステージが進んでいて、学齢期のお子さんがおられる人がおられます。お話を聞くと切なくなります。寄り添うことしかできません。ある方が「最悪の場合も考えています」とおっしゃいました。その方々の苦悩を決して軽く見るつもりはありません。けれども私たちキリスト者は、今、キリストが神の右の座で執り成してくださっていて、それによって自分の存在そのものが支えられていると信じています。ですから、自分の死は最悪のことではなくなっているのです。私たちの命は神の御手にあるのです。
このように、主イエスのお言葉が、今を生きる私たちに深く関わっていることを知らなければなりません。
本日の箇所はルカ福音書において「イエスとは誰か」という問いに応える第3番目の箇所なのです。第1番目は、第1章の御使いの言葉にあります。「父ダビデの王座をくださる」(ルカ1:32)、すなわちイエスはメシア(キリスト)であり、「神の子と呼ばれる」(ルカ1:35)。第2番目は弟子のペトロの言葉にあります。「イエスが言われた。『それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。』ペトロが答えた。『神からのメシアです。』」(ルカ9:20)。今日の箇所では、最高法院の尋問を通して、イエスはメシアであり、神の子であることが示されており、同時に私たち人間はだれも皆、実は、神の前に立たされていて、「あなたはイエスを誰と言うのか」と問われているのです。
イエスは、自分を逮捕したユダヤ当局の人々の不信仰を見抜いて「わたしが言っても、あなたたちは決して信じないだろう」とお応えになりました。「お前は神の子か」(70節)との尋問には、「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている」(70節)とお応えになりました。YESでもNOでもないイエスのお応えは「あなたはわたしを誰と言うか」と問い返しておられるのです。しかし、ユダヤ当局の人々は聞く耳を持ちませんでした。
このイエスのお答えは、ローマ総督ピラトに対しても同じでした。ユダヤ当局の人々は、イエスを死刑にするために、ローマ帝国に逆らう政治犯として訴えました(23章2節より)。「そこで、ピラトがイエスに、『お前がユダヤ人の王なのか』と尋問すると、イエスは、『それは、あなたが言っていることです』」(3節)とお応えになりました。そしてその後は、弁明も釈明もせず、ただ沈黙しておられました。ピラトは3度も「この男には死刑に当たる犯罪は何も見つからなかった」(ルカ23:4、14、22)と言いましたが、ユダヤ当局の人々は聞く耳を持たず、「十字架につけろ」という要求の声が非常に大きくなりました。ピラトは、恐らく反乱・暴動が起こることを恐れて、その要求を受け入れる決定をしました。こうして何の罪もない方が、罪人として十字架につけられることになりました。
私たちは、主イエスの光、御言葉の光の中で、ユダヤ当局の人々の罪の闇、ピラトの罪の責任を認めることができます。そのような人間の罪を赦すために、イエスはメシア(キリスト)として来られた方であり、ただ独り、救いを実現する神の子なのです。