3月28日(日) 復活前第1主日・棕梠の主日 礼拝順序
黙 祷
賛 美 307
主の祈り
交読詩編 詩編31:1~7
祈 祷
聖 書 ルカによる福音書第23章32~43節
使徒信条
説 教 「ここに教会がある」
賛 美 280
感謝祈祷
頌 栄(讃美歌) 24
祝 祷 (コリント二13:13)
説教要旨
日本のほとんどの教会の教会堂には十字架が掲げられています。なぜ十字架が教会のしるしなのでしょうか。十字架とは何でしょう。ここに教会がある、ここにこそ教会が立つべきところがあるからこそ、十字架を掲げているのです。
4つの福音書の十字架の出来事の記事を読み比べると、どの福音書にも共通しているのは、イエスが二人の犯罪人と共に十字架にかけられたことです。十字架刑は、恥と痛みに満ち、死に至るまで時間がかかるという当時の極刑でした。ある神学者がこの出来事について、ここに最初の教会がある、イエスは犯罪人と共にある、と述べました。この2人の犯罪人は弟子たちのようにイエスを見捨てて逃げることはないし、眠りこけることもない、イエスを否認することもない、共に十字架にかかっているのだから。イエスは十字架の上で神の慰め、神の福音を語っている、と。
私たちは十字架の上で語られた主イエスの言葉に驚くのではないでしょうか。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(34節)。イエスは、自分を十字架につける者のために、彼らの赦しを祈り求められました。彼らは何をしているのでしょう。神の子を殺すという罪を犯しているのです。
十字架の周りにいる人たちの言葉が記されています。まず、ユダヤの議員たちが「もし神からのメシア〔キリスト〕で、選ばれた者なら、自分を救うがよい」(35節)と嘲笑いました。次いで、兵士たちも、安い酒である酸いぶどう酒をイエスに突きつけて言いました「お前がユダヤ人の王なら、自分を救ってみろ。」(37節)。三度目には、犯罪人の一人が「お前はメシアではないか。自分自身と我々を救ってみろ」(39節)とののしりました。この人たちは「メシアなら十字架から降りて自分を救えるはずだ」と言いました。それがこの人たちの考えているメシアでした。
私たちはどうなのでしょう。「イエスがキリスト〔メシア〕である」と言っていても、自分の考えるキリストを求めていないか、偶像礼拝をしてはいないでしょうか。
そのとき、十字架にかけられていたもう一人の犯罪人は、心の目が開かれて言いました。「我々は、自分のやったことの報いを受けているのだから、当然だ。しかし、この方は何も悪いことをしていない」(40節)。この人は、自分自身がメシアの前にいることを知りました。イエスが、罪を犯していないのに、自分たちと共に同じ刑を受け、共に死を担おうとしていることに気がつきました。この人は死を目前にしていて、もう明日はありません。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(42節)と語りかけました。この人は、イエスが、あなたの御国、つまり、神の御支配の中においでになるという信仰を得ました。この方は神の御支配を必ずこの世界に来たらせてくださる、という信仰の告白をここでしているのです。さらに自分が、この神の御支配に入れない罪人であると深く自覚していました。イエスの憐れみにすがって、「どうぞあなたの心の片隅に私のことを思い出してください」と言わずにおれなかったのです。
するとイエスはお応えになりました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(43節)。この「今日」は特別な日、神の時である「今日」です。「楽園」は「パラダイス」とも訳され、ギリシア語旧約聖書では「エデンの園」に用いられています。ここに教会があります。十字架のキリストから救いの御言葉を聴き、救いの出来事が起こる。死を目前にした人さえ信仰の告白に導かれ、主イエスが永遠の救いに引きずり込んでくださる。この主イエスの福音が語られ、聞かれるところ、救いが起こるところに、教会があります。